アートのための質的調査法入門

質的調査とは、一般にフィールドワークやインタビュー、新聞や雑誌、書籍を対象とした文献調査など様々な手法を含みます。今回はその中でもとりわけインタビューの実施を前提に、調査を企画、実施し、アウトプットするまでの流れについて話します。
近年、フィールドワークやインタビューに基づいて作品を制作するアーティストが増えてきました。その際前提となる社会調査の調査倫理や調査プロセスを紹介することで、よりよい作品をつくるきっかけとなればと考えています。

日程:2016年12月17日(土)、2017年1月14日(土)
時間:14:00~18:30
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細はメールでお伝えします)
講師:團康晃(東京大学大学院学際情報学府博士課程/社会学、メディア論専攻)
料金:無料 定員:15名程度

【 12月17日 】
●調査倫理と調査依頼手続きについて
・調査倫理について
・調査依頼の手続きとフィールドへのアクセスについて
●調査の実施とデータ整理について
・調査の実施にあたってのテーマ設定、問いの設定
・聞き取りの際の工夫について
・データの整理の仕方
●データの分析について
・自らの問いとデータの関係について
・分析の事例紹介

【 1月14日 】
●課題のプレゼンテーションとディスカッション

<課題について>
12月のレクチャーの後、レクチャーを踏まえて実際に聞き取り(を中心とした)調査を行い、課題を提出していただきます(1月のレクチャーはその課題を踏まえて実施します)。そのため、当レクチャーを応募する際に、自分の問題関心、調査をしたいことを提出してください。

<12月17日と1月14日の参加申込>
https://goo.gl/forms/MIKwhWkItdLFC8hX2
※受付を終了しました

<12月17日の聴講申込>
https://goo.gl/forms/rF5NStHcyXFLCAVN2
※受付は12/13まで


團康晃|Dan Yasuaki
1985年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程。社会学、メディア論専攻。『最強の社会調査入門』(共著、2016年、ナカニシヤ出版)、「書きかわる慰安の動線書きかわる慰安の動線―特需佐世保における「輪タク」と行政の相互作用を事例に―」(『年報社会学論集』(28)(2015年))、「学校の中の物語作者たち――大学ノートを用いた協同での物語制作を事例に」(『子ども社会研究』(20)(2014年))ほか。

第八回フォーラム「美術と教育」

図画工作も含めれば、日本人は少なくとも9年間美術の教育を受けている。その教育を受けた成果として、私たちは何の力を身に着けているのだろうか。画力? 絵を描くことが美術だと、21世紀の現在、言うことができるだろうか? もっと言えば、上手く描けるようになる授業なんてものをする教師もいない。教えてもいないのに、能力は評価される。はたしてこれは何の教育なのだろうか。

Art EducationとEducation Through Art。美術教育と一言で言っても、実はその中にこの二つの意味が含まれている。前者は美術そのものを教える教育ということだ。美術に高い価値を認める社会にあっては、美術そのものを教育することにも価値があるとされ、専門教育のみならず、小学校や中学校といった普通教育においても美術そのものの教育はなされてきた。「美術とは絵を描く教科」だと広く認識されているが、それは絵を描くことが美術そのものであり、美術そのものを学ぶことが美術科だと信じられてきたからである。

一方後者は「美術による教育」ということになるが、美術そのものの教育を目的とせず、美術の活動(表現・鑑賞)を通して個人が獲得する知識・技能が重要であるという立場を指す。この場合の知識・技能は美術の分野において有用なものという意味ではなく、日常の生活実践において様々なレベルで人に有用なものということである。絵を描くことを例にすれば、良い絵を描けるようになることを前者の芸術そのものの教育が目指しがちなのに対して、後者では、絵を描くことを通して獲得される能力を通じていかに人間的な成長を果たすかが問題とされる。後者の代表的論者はハーバート・リードである。彼にとって美術教育は「人間の意識―すなわち人間個人の知能や判断―の基礎となっている諸感覚の教育」に他ならない。

教育のみならず現代の社会における芸術において、この二つの立場の力学が変化しつつある。自律的であるという扱いゆえに機能が求められなかった芸術だが、近年芸術のもつ外的効用が有用な機能として喧伝されることが増えている。つまり、後者の「美術による教育」に近い立場だ。これは義務教育課程や行政の芸術文化政策において顕著だと言える。しかし、この変化は、広く共有されているというよりは分裂を生じさせているように見える。

昨今の状況はさらに難しい新たな課題を我々に突き付けている。芸術が自律的に存在する以上、その外部に対してはほとんど制度的な関心は持たれなかったし、持なくてもよかった。しかし70年代以降、アースワークやパフォーマンスなど美術の表現行為は、制度的に成立している美術館やギャラリーから出ていき、現実の社会との接触を望むようになった。もちろん無味無臭の中立的空間としてのホワイトキューブと現実の社会とでは、作品を成立させる条件が全く異なり、川俣正のような作家はそのことに意味を求めてアートワールドの外部へと出て行った。そして2000年代以降の日本では、様々な地域アートイベントが各地で催されるようになり、地域社会の歴史や伝統、経済構造、コミュニティに関わる作品が増えている。

しかし、旧来の「(近代)美術の教育」を受けてきた作家たちは、いかなる資格においてそれらを表現することを許されるのだろうか。もちろん「表現の自由」は万人が有するものだ。しかしそれは無制限の権利ではないし、プロフェッショナルとして関わる際には、その専門性とは何かが問われるべきなのは言うまでもない。社会に関わる表現を行うのに、社会について素人でいることは許されるのだろうか。素人であるがゆえに意味のある表現が成立することもあるだろう。しかし、微妙な問題を孕む領域でそう振る舞うことが暴力とか破壊の行為となることもありうる。

実のところ、空間的には美術の世界から出ていても、作品の意味生成の論理は相も変わらずアートワールドのものに過ぎないケースは少なくない。そのことは場合によって、他者の人権を踏みにじることにさえ通じ、少しずつ積み上げられたものを一気に壊してしまうことさえもあるだろう。一方でクレア・ビショップに代表されるリレーショナル・アート批判では、多くのコミュニティの成員に安易に受け入れられもの提供することが美術に求められるものなのかという問いが投げかけられるが、緊張関係を強いる敵対性をコミュニティに持ち込めばよいということでももちろんないはずだ。おそらくは作品を構成する新たな要素を学ぶことが求められている。

社会との関係において、感性に基づいた表現行為である美術作品が果たせる役割は極めて大きいはずだという立場に立つとき、我々は美術教育で一体何を学ぶべきなのか、今回の社会の芸術フォーラム「美術と教育」では、そのことについて考えたい。

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第八回フォーラム「美術と教育」
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日時:2016年11月23日(水・祝)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
https://goo.gl/forms/XYdaMpSa3arSGqLo2
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
青山 悟(アーティスト)
縣 拓充(教育心理学、千葉大学)
郷 泰典(東京都現代美術館 教育普及)
西村徳行(美術科教育学、東京学芸大学)

【 司会・進行 】
岡田裕子(アーティスト、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)

「社会の芸術」を考えるための基礎知識

「障がい」「性暴力」「セクシュアリティ」「ジェンダー」「移民・外国人」「部落」「家族」「災害・ボランティア」など、社会におけるアクチュアルな諸問題をテーマにしたレクチャーを開催します。具体的な出来事、アートやポピュラー・カルチャーの作品を挙げて、わかりやすく解説します。連続してご参加いただくことによって、より広く深く内容を掘り下げます。

期間:2016年10月〜2017年3月
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細はメールでお伝えします)
料金:無料
定員:25名程度

<参加申込>
https://goo.gl/forms/SHZIAMwuox0Xdyzl2
※受付を終了しました

<追加申込>
https://goo.gl/forms/enHXWQcoHcNJTX3L2
※各回、10名程度の追加募集をおこないます

<スケジュール>
10月3日(月)19:00〜21:00
「障がい」後藤吉彦(専修大学 准教授)
10月28日(金)19:00〜21:00
「性暴力」牧野雅子(京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員)
11月4日(金)19:00〜21:00
「セクシュアリティ」岩川ありさ(東京大学リベラルアーツ・プログラム 教務補佐) 
12月22日(木)19:00〜21:00
「ジェンダー」田中俊之(武蔵大学 助教)
2月7日(火)19:00〜21:00
「家族」松木洋人(大阪市立大学大学院 准教授)
2月14日(火)19:00〜21:00
「移民・外国人」韓東賢(日本映画大学 准教授)
2月24日(金)19:00〜21:00
「災害・ボランティア」仁平典宏(東京大学 准教授)
3月3日(金)19:00〜21:00
「部落」齋藤直子(大阪市立大学 特任准教授)


後藤吉彦|Goto Yoshihiko
専修大学人間科学部准教授。神戸大学文化学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。主な著書に『手招くフリーク──文化と表現の障害学』(共著、2010年、生活書院)、『身体の社会学のブレークスルー 差異の政治から普遍性の政治へ』(2007年、生活書院)等がある。

牧野雅子|Makino Masako
京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員。博士(人間・環境学、京都大学)。社会学、ジェンダー研究。著書・論文に『刑事司法とジェンダー』(2013年、インパクト出版会)、『生と死のケアを考える』(共著、2000年、法藏館)、「『性暴力加害者の語り』と安倍談話」『世界』(2015年10月号)、「戦時体制下における出征兵士の妻に対する姦通取締り」『ジェンダーと法』11号(2014年)等がある。

岩川ありさ|Iwakawa Arisa
東京大学リベラルアーツ・プログラム教務補佐。早稲田大学、立教大学ほか非常勤講師。専門は、日本現代文学、クィア批評、トラウマ研究。論文に、「『痛み』の認識論の方へ——文学の言葉と当事者研究をつないで」(『現代思想』2011年8月号)、「境界の乗り越え方——多和田葉子『容疑者の夜行列車』をめぐって」(『論叢クィア』第5号、2012年)など。『美術手帖』(2016年7月号)「2.5次元文化」特集で詩人の川口晴美さんと対談するなどポピュラー文化の研究も行っている。

田中俊之|Tanaka Toshiyuki
1975年東京都生まれ。武蔵大学社会学部助教。博士(社会学)。社会学・男性学・キャリア教育論を主な研究分野とする。著書に『男性学の新展開』(2009年、青弓社)、『男がつらいよ―絶望の時代の希望の男性学』(2015年、KADOKAWA)等多数。「日本では“男”であることと“働く”ということとの結びつきがあまりにも強すぎる」と警鐘を鳴らしている男性学の第一人者。

松木洋人|Matsuki Hiroto
大阪市立大学大学院生活科学研究科准教授。博士(社会学)。専門は家族社会学。主な著書に『子育て支援の社会学――社会化のジレンマと家族の変容』(単著、2013年、新泉社)、『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』(共著、2016年、青弓社)など。

韓東賢|Han, Tong-hyon
日本映画大学准教授。1968年東京生まれ。専攻は社会学。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティの問題など。主なフィールドは在日外国人問題とその周辺、とくに朝鮮学校とそのコミュニティの在日朝鮮人。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)―その誕生と朝鮮学校の女性たち』(2006年、双風舎 ※現在は電子版発売中)、『平成史【増補新版】』(共著、2014年、河出書房新社)など。

仁平典宏|Nihei Norihiro
東京大学大学院教育学研究科比較教育社会学講座 准教授。NPO・ボランティアに代表される日本の市民社会の歴史・経済基盤・権力との関係等について、社会学的な観点から研究を行っている。主な著書に『「ボランティア」の誕生と終焉 -〈贈与のパラドックス〉の知識社会学-』(2011年、名古屋大学出版会)、『平成史(増補版)』(共著、2014年、河出書房新社)がある。

齋藤直子|Saito Naoko
大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授。奈良女子大学大学院人間文化研究科複合領域科学専攻博士後期課程修了、博士(学術)。部落問題研究と家族社会学の観点から、部落出身者への結婚差別問題について研究している。論文・エッセイに「全国部落青年の雇用・生活実態調査結果(4)女性の労働」『部落解放研究』196号(2012年)、「部落出身者と結婚差別」(SYNODOS http://synodos.jp/society/10900、2014年)などがある。

第七回フォーラム「検閲」

検閲を禁じ表現の自由を保障するという日本国憲法の意義が揺らぎつつある。今回は、表現の自由、表現者と文化組織の自律性がより危ういものとなりつつある今日の文化生産の状況を、社会学、憲法学的な視点も含めて考察する。

これに直接的に関わる近年の事例としては、「これからの写真」展(愛知県美術館, 2014年)での鷹野隆大の作品に対する愛知県警察からの撤去指導、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」(東京都現代美術館, 2015年)での会田家《檄》に対する美術館側からの撤去要請、「ふぞろいなハーモニー」(広島市現代美術館, 2016年)でのリュー・ディン《2013年のカール・マルクス》に対する中国当局による輸出不許可と美術館側の対応などがある。

また、アーティストからは「ある国でのビエンナーレへの出品をキュレーターから打診された際に、主催者の国際交流基金よりNGが出た」「『安倍政権になってから、海外での事業へのチェックが厳しくなっている。書類としての通達はないが、最近は放射能、福島、慰安婦、朝鮮などのNGワードがあり、それに背くと首相に近い部署の人間から直接クレームがくる』とのこと。NGワードをぼかすような編集も提案されたが、結局は他の作品を出品することで合意」(Chim↑Pom)、「国際交流基金では、歴史、特に加害の歴史を扱えない。それを含めるとやんわり断られるが、はっきりした理由は明示されない」(小泉明郎)などの声が上がっている。

このような状況の中、東京都現代美術館は今年「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展を開催し、これに関連してARTISTS' GUILDと芸術公社が『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』を出版した。また、美術評論家連盟の有志がシンポジウム「美術と表現の自由」を開催するなど、「規制」や「検閲」についての様々な議論が行なわれている。

今回のフォーラムでは、表現の自由の意義を今一度根本から問いつつ、表現の自由は歴史的にどのように獲得または規制されてきたのか、何が検閲や事前抑制にあたり、その力を働かせる主体は誰/何か、事後処罰が表現の自由にどのような影響を与えるのか、また、公的機関や公的助成事業において、表現の自由は保障されうるのかといった問題を共有し、これからの文化生産の可能性を探る。


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第七回フォーラム「検閲」
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日時:2016年9月25日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/84MXpM
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
岡﨑乾二郎(造形作家、批評家)
佐藤卓己(社会学、歴史学)
志田陽子(憲法学)
藤井光(アーティスト)

【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)

第六回フォーラム「アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?」

表現者にとって、「個人の尊重」「思想・良心の自由」「表現の自由」などの人権が保障されていることは必要不可欠である。

人権とは、「人間であればどんな社会的・政治的属性をもとうとも誰もが享有可能で、実定的な法や政治制度によって侵害されえない特異な権利である。内容的には、精神的・経済的な自由、身体の自由などによって構成される自由権のみならず、基本的な社会的生活を営むにあたって必要と考えられる条件の充足を求める社会権が含まれることが多い」とされる(『現代社会学事典』p687)。日本国憲法においても、第13条で「個人を尊重する」ことを憲法の理念とし、第11条や第97条で「基本的人権は侵すことのできない永久の権利」として保障している。しかし、具体的な人々の営みをみていくと、人権が必ずしも遵守されているとは言いがたい。さらに、7月10日に行われる参議院選挙においても、改憲は争点のひとつとなっており、人権関連項目は改正案に含まれ、さまざまな議論を引き起こしている。

アートにおいて、人権に関連する問題に関心を持っているアーティストやキュレーターも少なくない。たとえば、戦争、エイズ、ハンセン病、女性、障がい者、LGBTQ、移民/難民、原発、日米関係など。その一方、アーティストやキュレーターが、社会的に弱い立場の人を利用し、人権を犯したために批判されることもある。特に、関わる人々がアートの媒体や素材の中心的要素になる場合、それぞれの人権が問題になりやすい。

アートは、アーティストだけの営為ではなく、作品の出演者や参加者、キュレーター、批評家、ギャラリスト、コレクター、美術館のスタッフ、ボランティア、鑑賞者など、さまざまな主体による集団的営為であるので、どのような主体が、どのような判断をし、どのような責任があるか。その正当性はどのように確保できるのか。改めて考え、議論をおこなう機会をつくるべきだろう。

第六回フォーラム「アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?」では、弁護士、社会学者、アーティスト、キュレーターなど、さまざまな分野の専門家、実践者の方々をお招きし議論をおこなう。これらの方々はそれぞれの実践のなかで人権をめぐる具体的な問題と関わり思考を重ねてこられており、興味深い議論が期待できる。


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第六回フォーラム
アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?
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日時:2016年7月17日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
https://goo.gl/CLFRsS
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
須田洋平(弁護士)
山田創平(社会学)
小泉明郎(アーティスト)
遠藤水城(キュレーター)

【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
竹田恵子(文化研究、社会の芸術フォーラム)

ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」

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ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:
メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」
湯川史郎(ボン大学)
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日時:2016年3月16日(水)18:00〜
場所:東京大学 本郷キャンパス 情報学環本館6F(アクセス
定員:30人
共催:東京大学大学院情報学環

<参加申込>
http://goo.gl/forms/TPZ2ydNW4g
※参加申込は前日までにお願いします

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本ワークショップでは、F. M.トラウツが「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を通して、ある個人に由来する資料群とアーカイブとの関係、そしてその資料群全体をメディア史のアーカイブとして捉えるアプローチの可能性について議論したい。
そして、「歴史写真に基づく1860年代の日独関係の再構築」(【基盤A】課題番号2540053、研究代表 馬場章)の成果の一部を議論することも目的としている。

報告は、トラウツ資料群の中から具体例を挙げながら、以下の点に沿って行う予定である。

[1.F. M. トラウツ]
F. M. トラウツ(1877-1952)は、陸軍士官というキャリアを進むものの、第一大戦後に退役。その後は日本研究者として、ドイツの日本学の確立、そして1920年代から1930年代における日独文化交流おいて、重要な働きをした人物であった。

[2.トラウツがのこしたもの]
トラウツがのこした資料群の主要な部分は、ドイツ連邦文書館とドイツ外務省政治文書館にNachlass(個人の「遺稿/遺産」)として、ボン大学日本・韓国研究専攻にトラウツ・コレクション(Trautz-Sammlung)として収蔵されている。この資料群は、その点数もさることながら、メディア的多様性、そして内容的「雑多さ」によって特徴付けることができる。それはトラウツが - 報告者の主観的な印象だが - 「所有することができ、価値を見出した情報媒体を整理、保存し、捨てない/とっておく」という習慣を徹底して実践していたからでもある。またそれは彼が「意図的にのこしたもの」と「意図せずにしてしたもの」を含むことにも由来する。

[3.NachlassとArchiv]
ある個人が死後、意図的にあるいは意図せざるままに「のこしたもの」の総体を示す適当な言葉は、無いように思う。
そのような言葉として、学問的なコンテクストで一番に思いつくのはNachlass(遺産、遺稿あるいは文庫といった意味)であろう。ドイツの文書館(Archiv)で、個人の遺稿や書簡が収蔵される場合は、「Nachlass」として受け入れられる。それは基本的には内容や形態によって選別され、「雑多さ」が排除された結果としての資料のまとまりである。人がのこしたものがそのような制度/機関としてのアーカイブに収蔵される場合は、それらの価値基準や前提とされるメディア形態によって、選別され、雑多さが削ぎ落とされるのが通例なのだ。

[4.Nachlass/Archivの「まえ」にある/あったものとしてのHinterlassenschaft]
文書館にあるトラウツの「Nachlass」は、受け入れられた当時の「仮のまとまり」のまま、完全なカタログ化もされないまま保存されていた。それは、きわめて雑多な内容と形態のものを含み、彼が生前、整理して所有しいたままの構造をほぼ保っている。アーカイブによる選別のフィルターにをかいくぐり、そこにあるのである。
そのように各文書館や機関に散在するトラウツがのこしたものをつなぎ合わせて眺めたとき、そこに見えてくるのは、トラウツが死の直前まで「のこしておいた」雑多なもののひとまとまりである。このまとまりを、「Hinterlassenschaft」という言葉で捉えてみたいと思っている。それは法的用語としての「遺産」(Erbe)ではなく、「あとにのこす」という他動詞「hinterlassen」からの派生語として「のこしたもの/のこされたもの」という意味において、である。
この「Hinterlassenschaft」のうち、(正負の)価値を見出されたものだけが選別され、後世に伝えられてきた。アーカイブという機関のNachlassや相続における遺産(Erbe/Erbschaft)などである。
つまり、「Hinterlassenschaft」が指し示すのは、残された者が価値を投影し、解体していく前にあった(はずの)、ある個人が捨てることなくとどめておいたものであり、時間と共に雲散霧消することなくその人に寄り添い続けたもののまとまりである。それは、ある個人/故人の痕跡であり、その生によって有機的に関連付けられ、そこに留まったものの総体である。

[6.メディア史のアーカイブとしてのHinterlassenschaft、あるいは、その全体を捉えるための枠組みについて]
この残された者によって選別される前の、ある個人の痕跡の総体としての「Hinterlassenschaft」それ自体が、学問的な枠組みのなかで意味を見出されることは、伝記的な研究のほかには希であった。しかし、メディア史という視点から眺めるならば、別の意味、「メディア史のアーカイブ」を見出すことができるのではないだろうか。その雑多なものが混在するまとまりのなかに、書き込まれたメディア史を探しだしていくことでもある。
この「Hinterlassenschaft」が持つメディア史のアーカイブとしての潜在性は、「トラウツがのこしたもの」を通して確認されるはずである。

[7.トラウツの情報メディア観/習慣]
その遺書草稿の中で自らを「哲学的(言語的)というよりも視覚的な才能に恵まれていた」と自己描写していたトラウツは、メディア論的であった。言語情報と視覚情報、「名称やことば」と「実体があり目に見えるもの」を明確に区別し、前者を後者の背後にあるもの、あるいは、後者に基づき生成される副次的なものとして捉えていた。この当時の文献学的な日本学者らしくない情報メディア観は、トラウツが陸軍士官として内面化した習慣に基づくものだったかもしれない。そしてそれは、A)画像メディアへの強いこだわり、B)異なるメディアの並列的な利用、C)情報メディアそのものの保持、として彼の「Hinterlassen-schaft」に見出すことができる。
このトラウツのメディア論的側面ゆえ、彼の「Hinterlassenschaft」にはメディア史がはっきりと刻みこまれている。

[8.通事的観点]
例えば、トラウツが残したものは、その写真資料の多さで際立っている。全体を眺めると、写真のネガはガラス乾板に始まり、フィルムで終わっている。またそれらの写真は、紙やガラススライドなど、講演会や出版などの用途に合わせて多様な形態に現像され、複製されたものが残っている。そこに見出されるのが、写真を積極的に使い、環境を記録/構築していた彼の姿勢であり、そのための「道具」を常に新しくよりよいものに保ち続けた姿である。トラウツが残した写真資料を時系列にそって眺めるならば、写真(メディア)史ではあまり省みられることがなかった、アマチュアにおける写真というメディアの歴史が写されている。

[9.共時的観点]
またトラウツは、ある出来事や対象を、異なるメディアを用いて並列的に記録し、保存していた。例えば、1909/1910年の日本滞在の折、朝鮮・満洲を旅する。日露戦争の戦跡めぐりがおもな目的だった。その記録は、手書き/描きの日記、自分で撮影した写真、収集した絵葉書や地図、写真などの資料、旅程表や書簡などの旅行関係書類など多岐に渡っている。また、後日作成した日記のタイプ稿や写真アルバム、記録に基づく論文など多くの関連資料も残されている。これらの「1909/1910年の朝鮮・満洲旅行」という出来事に関連する資料群は、当時彼が手にすることができたメディアによって構成されたものであり、そこには彼のメディア環境/生態系の痕跡を見出すことができる。
このように、個人をあるメディア生態系(メディアの共進化の場)とするならば、トラウツがのこしたもののなかには「ある時点でのトラウツ」におけるメディアの共存のあり方が見出せるはずであり、それらを伝記的に各時間/時代に則して並べるならば、そこには「トラウツ」におけるメディアの共進化の歴史が見えてくるはずである。

[10.伝記的メディア史 biographische Medienhistoriographie]
ある個人が意図的にあるいは意図せずに「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を「メディア史のアーカイブ」と見立てるなら、これまでの「メディア史」とは異なるメディアの歴史が見えてくるのではないだろうか。「メディア技術の発達や社会化の歴史」あるいは「メディアによる感覚や認識の変容の歴史」など、社会や制度や集団といった大きな枠組みから/を眺めるのではない歴史である。「Hinterlassenschaft」の中の雑多なものの間にあるつながりを見つけながら、ある個人の中で絡み合いながら並存していたメディアの痕跡を確かめていくことで見えてくる、ある特殊なメディアの歴史である。
その個人的で特殊なメディア史の中には、大きな枠組みから眺めるものとは異なるメディア史が刻み込まれているのではないか、そしてそれはどのようなものでありうるのか、「Hinter-lassenschaft」という「メディア史のアーカイブ」の潜在性について、ワークショップを通して議論したいと思う。

レクチャー #8 「表現の(不)自由」

成原慧氏(情報法、東京大学大学院情報学環客員研究員)をお迎えし、第五回フォーラム「〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界」のフォローアップを実施いたします。

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レクチャー #8 「表現の(不)自由」
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日時:2016年3月25日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:成原慧(情報法、東京大学大学院情報学環客員研究員)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

成原慧|Satoshi Narihara
東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。東京大学大学院情報学環助教等を経て、現在は東京大学大学院情報学環客員研究員等を務める。専門は情報法。特にインターネット上の表現の自由について「アーキテクチャ」と呼ばれる技術的手段や情報流通の媒介者の役割に着目して研究している。主な論文に、「情報流通の媒介者と表現の自由」Nextcom Vol.21(2015年)、「憲法とコンテクスト―初期ローレンス・レッシグの憲法理論―」情報学環紀要 情報学研究No.86・No.87(2014年)、「多元化・重層化する表現規制とその規律―表現の自由・アーキテクチャ・パブリックフォーラム」憲法理論研究会(編)『憲法理論叢書21 変動する社会と憲法』(敬文堂、2013年)などがある。

第五回フォーラム「〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界」

表現の自由と芸術。社会とアートとの関係において、これほど繰り返し議論されてきた論点も珍しいだろう。社会制度的な外的制約との闘争、あるいは自らが欲する行動を自ら決定する自律性をめぐる葛藤が、様々な時代、様々な場面、様々な地域で繰り返し行われてきた。その代表的な議論は、性的と見なしうる表現をめぐってものだと言える。古典的な絵画や彫刻が裸体をモチーフとして愛好したこと、近代におけるアートワールドの転換の後も、裸体や性的事象は文学や芸術の「素材」として受け継がれてきた。

というよりも、フーコーに即していうなら、「厳格な」ヴィクトリア的異性愛中心主義的な性規範が浸透するなかで、性的な事象は逆に「厳格な規律」を突き崩す契機として、よりいっそう強い意味を担わされるようになったともいえる。法や規範が性を「表に出てはいけないもの」として秘匿化すればするほど、「表に出すこと」の政治的・社会的なメッセージの強度は高まる。性規範の厳格化と、性に関する語り・表現の氾濫とは、表裏の関係であり続けてきた。そうした共犯関係のもと、「過激な」性表現は、教会や国家・法が定める「猥褻/非猥褻」の区別に依拠し、その区別の境界線を問題化するという形で、その存在価値を証示し続けてきた。「猥褻であるが、芸術である」ということが、責任を減免する根拠として主張され続けたのもそのためである。それは同時に、「猥褻」や「芸術的価値の評価」がジェンダーという観点を削ぎ落す形で定式化されてきた(きている)ことも意味している。「性的であること/ないこと」の定式化、「芸術/猥褻」の区別そのものが、ジェンダーの非対称性のもとなされてきたこと、つまり「表現の自由(芸術)vs猥褻」という認識の構図そのものがジェンダー化されてきた歴史(その構図への/の外での批判が繰り返し提示されてきたこと)を忘れるわけにはいかない。

ヴィクトリア的性・ジェンダー規範(homeに内閉され、子どもに禁じられた)の強化と、性的表現が持つ芸術的価値の高騰との共犯関係は、しかし、ここ半世紀ほどのあいだでたしかに大きく変わってきている。性と愛と結婚の三点セットの構造は解除され、街中には性的な表現が多く溢れている。「猥褻である/ない」の規準、「誰が誰の性をいかにして描くのか」もまた、時代とともに変わってきている。

女性表現者たちの試みは、女性の性的主体性・自律性の安易な否定を難しいものとしたし、性的指向の差異も異性愛中心主義における性表現のあり方・解釈をより複雑なものとしている。性器の表現一つとっても、もはやそれ自体で「芸術的」価値があるとは言えないし、逆にそれ自体で国家によって規制される「猥褻である」とも言い切れない。子どもをもはや性的に無垢な存在とみることはできなくなっていると同時に、子どもが性的な対象とされることにはより強い保護措置がとられるようになった。そうした複雑な状況の中、表現の手法も多層化している。文学、絵画、写真、映画といった芸術における「猥褻」基準が緩和されていくと同時に、必ずしも芸術性を追求することを意図しているわけではないサブカルチャーのキャラクターの性表現が議論の対象となってもいる。もはや論点は、猥褻か、表現の自由が適用される芸術か、などという単純なことにはなく、多元的な性規範、多様な性的指向、多種の表現技法、様々な主体性のあり方を考察することなく、「表現」を考えることはできなくなっているということだ。

本フォーラムでは、会田誠(アーティスト)、笠原美智子(キュレーター)、金田淳子(社会学)、清水晶子(フェミニズム/クィア理論)、成原慧(情報法)をお迎えして、現代における性表現をめぐる様々な社会的・政治的・法的・芸術的な文脈について分節していくことにしたい。わたしたちの社会は、性的な事柄を表現せずにはいられない。一見しただけでは性的に見えない事柄が、他者にとっては性的たりうることも日常的な事柄に属する。であるなら、ある事柄が「性的である/ない」「ジェンダーに関連する/しない」「性的であるが問題ない/問題がある」とわたしたちはどのような文脈から判断するのであろうか。「性的なまなざし」「ジェンダー化されたまなざし」の多文脈性を丁寧に見据えていく機会としたい。

同時にわたしたちは、この議論をその他の表現の自由めぐる事案について考える端緒にしたいとも考える。ヘイト・スピーチを法的に規制することを「表現の自由」を盾に拒む立場をどのように考えるべきか? 芸術的表現衝動を芸術であるが故に許されるべきだとする立場が他者の人権を害する事例をどう論じるべきか? 表現や受容をめぐるジェンダーの差異・非対称性をどうとらえていくのか? 公的立場での職務遂行者が、その立場を離れ個人的感情を表現の自由として主張することの社会的価値とは何なのか? 美術館という表現をめぐる場での行政による規制や主体としての館が自己規制することをどう考えるべきなのか? それらは人権をめぐる根源的な問いを含むものでもある。性表現をめぐる表現の〈不〉自由について議論を深めることで、現在の日本社会の、日本の芸術の在り方について一石を投じたい。

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第五回フォーラム
〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界
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日時:2016年2月20日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/p96f1LFd23
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
会田誠(アーティスト)
笠原美智子(キュレーター)
金田淳子(社会学)
清水晶子(フェミニズム/クィア理論)
成原慧(情報法)
北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)

シンポジウム02|都市と祝祭:芸術的想像力はいかに都市を覚醒するのか

芸術と社会の関係性の更新に取り組むNPO法人 芸術公社 との共同企画として国際シンポジウムを開催致します。

テーマは「都市と祝祭」。本シンポジウムでは、建築・都市計画、社会学、アート、行政など、それぞれの最前線でヴィジョンを提示し続ける論客をお招きし、オリンピックという祝祭の原点や歴史を参照しつつ、私たちの生きる21世紀の東京、日本、アジアにおいて有効な「都市の祝祭」のアップデートを試みます。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて日本各地にアートイベントが乱立するとも言われる今日、芸術的想像力はいかに「都市における祝祭」を大胆に読み替え、都市空間にまだ見ぬ「非日常」を出現させることができるのか? 政治的アジェンダや利害を超えた地平で、私たちが生きる都市・東京ではいかなる「祝祭」が可能なのか? 

会場は東京大学安田講堂。1964年の東京オリンピック開催から4年後、社会変革を志す学生らが立てこもり、いわゆる「安田講堂事件」として日本の戦後史の象徴となった場所。「都市と祝祭」をめぐり、歴史を参照しつつ近未来を共に構想する本シンポジウム、皆様のご参加をお待ちしております。


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社会の芸術フォーラム × 芸術公社 共同企画
国際シンポジウム02
都市と祝祭:芸術的想像力はいかに都市を覚醒するのか
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日時:2016年3月13日(日)14:30〜18:30
会場:東京大学 本郷キャンパス 安田講堂(アクセス
無料・先着順・事前予約制

<参加申込>
http://goo.gl/forms/QLjYab6Y63
※参加申込は前日までにお願いします

【 登壇者 】
アメリー・ドイフルハルト(ハンブルク・カンプナーゲル劇場芸術監督、世界演劇祭2017芸術監督)
磯崎 新(建築家)
吉見俊哉(社会学者、東京大学)
高山 明(演出家、Port B主宰)
桃原 慎一郎(東京都生活文化局次長)
※登壇者プロフィールはプレスリリースをご覧ください。

【 司会 】
相馬千秋(アートプロデューサー、芸術公社代表理事)
北田暁大(社会学者、東京大学、社会の芸術フォーラム共同代表)

【 プログラム 】
14:30-14:40|イントロダクション:企画趣旨について 相馬千秋
<第1部> ※登壇順が変更となりました
14:40-15:10|磯崎新「祝祭都市ー天安門広場 / 皇居前広場」
15:10-15:40|高山明「路の祝祭」
15:40-16:20|アメリー・ドイフルハルト「遊び場を拡張する」(逐次通訳あり)
16:20-16:50|吉見俊哉「ポスト2020の東京ビジョン:21世紀の戊辰戦争は可能か?」
休憩(10 分)
<第2部>
17:00-18:30|討論「都市と祝祭:芸術的想像力はいかに都市を覚醒するのか」
登壇者:アメリー・ドイフルハルト、磯崎 新、吉見俊哉、高山 明、桃原 慎一郎
司会:相馬千秋、北田暁大

【 懇親会 】
シンポジウム終了後〜20時まで

会場:東京大学 本郷キャンパス 安田講堂2F
会費:2000円
※当日、シンポジウム受付の際に参加費を頂戴致します
※千円札でのお支払いにご協力を何卒お願い申し上げます

お持ち頂くもの:お名刺
懇親会参加票の代わりとして懇親会参加者の皆様にパスケースをお渡します。
お名刺を入れてご活用頂ければ幸いです。

【 レポート(PDF) 】
企画趣旨「都市と祝祭:芸術的想像力はいかに都市を覚醒するのか」相馬千秋 
イントロダクション(PDF 251KB)
執筆テキスト(PDF 169KB)

磯崎新「祝祭都市—天安門広場/皇居前広場」
講演プレゼンテーション(PDF 3.1MB)
高山明「路の祝祭」
講演プレゼンテーション(PDF 3.5MB)
アメリー・ドイフルハルト「遊び場を拡張する」
講演プレゼンテーション(PDF 3.5MB)
吉見俊哉 「ポスト2020の東京ビジョン:21世紀の戊辰戦争は可能か?」
講演プレゼンテーション(PDF 2.7MB)
桃原慎一郎「2020 年に向けた東京都の文化ビジョンと事業フレーム」
講演プレゼンテーション(PDF 1.7MB)

討論「芸術的想像力はいかに都市を覚醒するのか」
磯崎新、高山明、アメリー・ドイフルハルト、吉見俊哉、桃原慎一郎 司会:北田暁大、相馬千秋
ディスカッション(PDF 723KB)

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チラシデータ(PDF)
プレスリリース(PDF)

主催:社会の芸術フォーラム、特定非営利活動法人芸術公社
企画・コーディネート:相馬千秋(アートプロデューサー、芸術公社代表理事)

【 お問合せ 】
社会の芸術フォーラム事務局 society.art.forum@gmail.com
ご取材依頼:芸術公社 contact@artscommons.asia

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芸術公社とは?
フェスティバル/トーキョーの初代ディレクターを務めた相馬千秋らを中心に2014年11月に発足したNPO法人。芸術が今日の時代と社会に応答し、未来に向けて新たな公共理念や社会モデルを提示しうるという認識のもと、芸術と社会の関係性を更新する数々のプロジェクトを日本およびアジア各地にて展開している。プロデュース事業、メディア事業、シンクタンク事業、教育・基盤整備事業を柱に、12名の設立メンバーが事業ごとにユニットを組んで活動している。
http://artscommons.asia

上映会 / 田中良佑

田中良佑の映像作品の上映会を開催します。

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上映会 / 田中良佑
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日時:2016年1月30日(土)14:00〜20:00
※開場は13:30 ※途中入退場可
場所:お茶の水女子大学(詳細はメールでお伝えします)
定員:50名 参加費:無料

<参加申込>
https://goo.gl/MiMfTy
※申込は前日までにお願いします

【 スケジュール 】
14:00〜《 Over the Ocean 》
16:00〜《 Mud soul 》
17:00〜《 UNFINISHED 》
18:00〜《 Night forest 》
19:00〜 アフタートーク

【 上映作品 】
《 Over the Ocean 》(85分30秒、2015年)
 この映像作品は、僕が2015年の10月から11月にかけて沖縄の「コザ」という町に滞在しながら制作したものです。「コザ」は、「極東最大の空軍基地」という嘉手納空軍基地の目の前に広がっています。僕は、コザのメインストリートであり、嘉手納空軍基地第二ゲートに直結している大通り「ゲート通り」に49年間店を構えているタコス屋「OCEAN」を訪れ、入り浸り、その店長 屋良 靖さんと、お店に訪れる様々な立場のお客さんに話を聴く映像作品を制作しました。
 “コザ” その名前は一度聞いた時から、僕の耳に強く遺り、離れませんでした。その不思議な響きは、今から70年前、1945年にアメリカ軍が沖縄本島に上陸した時から生まれたそうです。上陸したアメリカ軍は、本来「越来村(ごえくそん)」という名だったその場所に、軍事施設や難民収容所を建て、その一帯を「KOZA」と名付けました。その由来は、隣接する「古謝(こじゃ)」「胡屋(ごや)」という地域の名前が混ざったもの等と言われていますが、はっきりとはわかっていません。現在「コザ」は、1974年に隣接する美里と合併し「沖縄市」となり、正式な地名として存在していませんが、今でもその場所は、かつての米軍統治時代の色を遺す混沌としたイメージとして、沖縄の多くの人に「コザ」と呼ばれているようで、何の知識も無く立ち寄った僕もいとも簡単にすぐここがコザであることをわかりました。
 2015年の8月、僕は映画撮影の手伝いに誘われ、高校3年生の修学旅行ぶりに沖縄を訪れました。高校3年生の時には見えなかったり感じなかった想像を遥かに超えた沖縄の美しさと哀しみに激しく混乱し、言葉も出ず立ち尽くしました。その時に僕は、もっとこの場所に長く滞在して「沖縄」のことを少しでも知りたい、なにかをわかりたい分かち合いたいと強く思いました。なかでも「コザ」に滞在したのは、その地域だけポッカリと虚空に浮かんでいるような、捉えがたく頭が全く追いつかない衝撃を、最も受けた場所だからでした。その”わからない”場所に住む事が、僕にとって「沖縄」を少しでも知るきっかけになるかもしれないと信じ込み、僕はその場所に滞在することを決めました。
 「OCEAN」。初めてその水色の看板を見た時から、僕は何故か無性に気になって気になってしょうがなかったお店。この滞在で、「OCEAN」の人々に話を聴いた理由は、うまく言えない。嘉手納空軍基地の目の前、米軍統治時代からのお店という前に、僕は「OCEAN」から滲み出る、人を突き放しながらも優しく受け入れるような空気のようなものを感じて、本能的に、この場所の人に話を聴きたい、と思いました。それは、理解りえないものへの断絶感と、身勝手な憧れと、わかちあえる部分が必ずあるかもしれないという希望のような感情を同時に、「OCEAN」の佇まいに感じたからかもしれません。その場所で僕は、同じ時代を生きるものとして、違う場所で生まれ育った者として、わかりあえないものとして、わかりあえるかもしれないものとして、とにかく、今まで聞いた事のない話を、聴き続けました。
※この映像の中で話されている内容は全て一個人の話であり、総意や事実というものでは決してありません。


《 Mud soul 》(40分40秒、2014年)
東京最大のホームレスの街「山谷」についての作品を作る事にした私は、ホームレスの方から一人を決めて、その人の人生についての記憶から作品をつくろうと考えた。そして、山谷に入り込んで、沢山のホームレスの方々の中から「西田さん」という方とお近づきになっていく。しかし、ホームレスの方に話を聞く難しさや反発、なによりも、作品の為にホームレスを”利用”しているという罪悪感や葛藤にさいなまれ制作は難航した。「Mud soul 濁った魂」は、作家が立場の違う他者を利用する事自体のリアリティについての映像作品である。


《 UNFINISHED 》(46分10秒、2014年)
秋田県は日本一の高齢化社会が進んでおり、そして日本一 自殺率が高い県である。秋田県大館市で51年間営まれている喫茶店「未完成」は、営業当初はクラッシックを流す。「名曲喫茶」(イケてる店の名前はシューベルトの「未完成交響曲」に由来している)であり、若者の恋愛や喧嘩の舞台であったという。しかし月日が経ち、名曲喫茶では続かなくなり、インベーダーゲームやカラオケを導入して、他の喫茶店が次々潰れる中でもいびつながら時代に合わせて営んできた「未完成」は、現在では、街のお年寄りが毎週カラオケを歌いにくる場、になっているという。そんな話をたまたま街を散策する中で聴いた私は、その「未完成」にくすぶる、社会や人生への嘆きや喜びを、作品化しようと考えた。そしてそれは、衰退していく地方社会、急速に進む高齢化社会への必要な投げかけになると思った。


《 Night forest 》(30分40秒、2015年)
福島県双葉郡富岡町(現在居住制限区域)にある「回転寿司アトム」。ニュースや本で「原子力ムラを象徴する」お店として取り上げられているのを観て、僕は店長にどうしても会いたくなった。あの日から4年がた経った。現在の気持ちを聴きたくなった。アトム寿司の店長 佐藤さんがいわきで焼き鳥屋を開店した事を知り、電話をさせていただき、会いに行った。幼少期の原子力と町の思い出、震災時の状況、心境を伺う中で、「アトムのお店の看板を貸して下さい」という無茶なお願いをした。4年前の3月11日から消えたままだった看板を、再び煌煌と点灯させる。あの日の日常、あの日の僕達、「アトム」というその光を。



田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka

レクチャー #7(社会的包摂/排除に関して)「被差別部落問題」

齋藤直子氏(大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授)をお迎えし、第四回フォーラム「アートをめぐる包摂と排除」のフォローアップを実施いたします。とくに「被差別部落問題」に焦点をあて、フォーラムにおける議論と関連させながら、さらなる課題を探ります。

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レクチャー #7(社会的包摂/排除に関して)「被差別部落問題」
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日時:2016年2月12日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:齋藤直子(大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

齋藤直子|Naoko Saito
大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授。奈良女子大学大学院人間文化研究科複合領域科学専攻博士後期課程修了、博士(学術)。部落問題研究と家族社会学の観点から、部落出身者への結婚差別問題について研究している。論文・エッセイに「全国部落青年の雇用・生活実態調査結果(4)女性の労働」『部落解放研究』196号(2012年)、「部落出身者と結婚差別」(SYNODOS http://synodos.jp/society/10900、2014年)などがある。

レクチャー #6(社会的包摂/排除に関して)「レイシズムとヘイトスピーチ」

明戸隆浩氏(社会学・多文化社会論)をお迎えし、第四回フォーラム「アートをめぐる包摂と排除」のフォローアップを実施いたします。とくに「レイシズムとヘイトスピーチ」に焦点をあて、フォーラムにおける議論と関連させながら、さらなる課題を探ります。

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レクチャー #6(社会的包摂/排除に関して)「レイシズムとヘイトスピーチ」
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日時:2016年1月27日(水)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:明戸隆浩(社会学・多文化社会論)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

明戸隆浩|Takahiro Akedo
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。関東学院大学・東京工業大学ほか非常勤講師。専門は社会学・多文化社会論。著作に『奇妙なナショナリズムの時代』(岩波書店、2015年、共著)、訳書にエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』(明石書店、2014年、共訳)などがある。