トークイベント「歴史を描くこと ―絵画と、漫画や映像のストーリー芸術と―」

太平洋戦争終結70周年ということで、日本の戦争画再評価のちょっとしたブームが起こっています。美術界ではかつて歴史画というジャンルがありましたが、戦後はナショナリズムやオリエンタリズムの批判と、ポストモダンのアートではなぜかあまり歴史を扱わなくなった(扱い難くなった?)ことで、永らく描き手はほとんど空席状態にありました。私・小倉涌は西洋古典画法で近現代の歴史画を描くアーティストですが、ロマン派や戦争画の美術界エリートたちが「正史」を担おうとしたこと、今後美術作品で歴史をテーマにしていく可能性について話していきます。

ストーリー芸術については、ソビエト、ロシアを舞台にした作品で知られている漫画家の速水螺旋人さん、SF評でも知られる経済学者で社会学者の稲葉振一郎さん、ナショナリズムやメディア史の著書があり社会学者で社会の芸術フォーラム共同代表の北田暁大さんから、偽史ものや歴史ものの実際の制作と秀作について、現代の歴史ものは果たして正史へのカウンターとして表現されなくてはならないのか、それは何故か、といったお話をしていただきます。

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トークイベント「歴史を描くこと ―絵画と、漫画や映像のストーリー芸術と―」
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日時:2015年12月19日(土)15:00~18:00
場所:東京大学本郷キャンパス内(お申込みいただいた方には場所をメールでお伝えいたします)

【 お申し込み 】
以下のフォームからお申し込みください。
http://goo.gl/forms/qctqMdxpLl
※定員(25名)に達し次第、締め切らせていただきます

【 登壇者 】
小倉涌(アーティスト)
速水螺旋人(漫画家)
稲葉振一郎(社会学者)
北田暁大(社会学者)

【 登壇者プロフィール 】
小倉涌(おぐらよう)
京都精華大学美術学部デザイン学科卒。2010年11月、初個展、敗戦後の占領をテーマにした『マッカーサーの子供たち』開催(東京)。2011年8月、個展『マッカーサーの子供たち』(大阪)。2011年11月、個展『マッカーサーの子供たち』(東京)。現在『二月革命』をテーマに個展に向けて制作中。社会の芸術フォーラム発起人。
http://www.yowogura.net/
速水 螺旋人(はやみ らせんじん)
漫画家・イラストーター/ソ連/ロシア、ミリタリー、電源不要ゲー、SFなどを題材に多くの作品を発表している。代表作に『靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争』、『大砲とスタンプ』(月刊モーニングtwo連載中)『速水螺旋人の馬車馬大作戦』など。
ttp://park5.wakwak.com/~rasen/
稲葉振一郎(いなば しんいちろう)
1963年生まれ。明治学院大学社会学部教授(社会倫理学)。著書に『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』(窓社、1996年)、『オタクの遺伝子―長谷川裕一、SFまんがの世界』(太田出版、2005年)『資本論―取り引きする身体/取引される身体』(ちくま新書、2005年)『「公共性」論』、(NTT出版、2008年)などがある。

社会の芸術フォーラム展「躊躇」

よく知らないこと、わからないこと、思うようにいかないこと、あまり考えたくないこと、矛盾していること、自分の弱さや愚かさなどを、戸惑い、悩み、立ち止まり、揺れ動きながら、一緒にゆっくり考えます。

荒木悠|Yu Araki
飯山由貴|Yuki Iiyama
髙橋耕平|Kohei Takahashi
田中良佑|Ryosuke Tanaka
村田紗樹|Saki Murata

会期:2015年12月4日(金)~19日(土)
時間:平日 15:00~21:00 土日 10:00~21:00

会場:HIGURE 17-15 cas(〒116-0013東京都荒川区西日暮里3-17-15)
<アクセス>
JR山手線/京成線/日暮里・舎人ライナー「日暮里」駅 北改札西口から徒歩6分
JR山手線/東京メトロ千代田線/日暮里・舎人ライナー「西日暮里」駅 西口から徒歩8分
東京メトロ千代田線「千駄木」駅 2番出口から徒歩8分
<地図>
http://goo.gl/maps/Wyie

入場無料

<イベント>
オープニングパーティー:12月4日(金)18:00~21:00


荒木悠|Yu Araki
1985年山形県生まれ。2007年ワシントン大学美術学部彫刻専攻卒業。2010年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。近年の主な仕事に「オマー・ファスト展」映像字幕翻訳(TARO NASU, 東京, 2015)、悪魔のしるし演劇公演「わが父、ジャコメッティ」映像製作(KAAT神奈川芸術劇場、京都芸術センター、スイス三都市巡回, 2014)、core of bells「第四回月例公演:デトロイトテクノ人形」ナレーション出演(SuperDeluxe, 東京, 2014)など。昨年は都内2カ所で個展「WRONG TRANSLATION」(The Container)と「MOTHERLANDS」(実家 JIKKA)をほぼ同時開催。通訳・翻訳といった言語的活動の一方で、物事の伝播に伴う誤訳・誤解釈に着目した制作を展開している。ATC所属。
http://www.yuaraki.com/


《カントリー・ミュージック》参考写真、2015年

飯山由貴|Yuki Iiyama
1988年神奈川県生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科油画科修了。主な展覧会に「Temporary home, Final home」(APMoA Project ARCH vol.16,愛知県美術館, 愛知)、「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」(waitingroom, 東京, 2014)、「湯気 けむり 恩賜」(実家 JIKKA, 東京, 2013)など。ネットで購入したスクラップブックなど、どこかの誰かが作った個人的な記録を起点に制作をしている。ここ2年は、家族の1人が持つ幻覚や幻聴を再現する試みや、精神病院での医療記録や、ケアについてリサーチをしている。
http://yukiiiyama.flavors.me/


《何が話されているのか、また何故その発話の形式と内容は、そうした形をとるのか》映像45分、2015年

髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 特別連携プログラム『still moving』」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。主な上映・イベントに「なぜ「私」が撮るのか」(旧所沢市立第2給食センター, 埼玉, 2015)、「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/


《HARADA-sanへの身勝手な応答 - 音楽と編物と》HD VIDEO(16分34秒)、2015年

田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka


《Over the Ocean》写真、映像、2015年

村田紗樹|Saki Murata
1989年神奈川県生まれ。2013年東京造形大学絵画専攻領域卒業。主な展覧会やイベントに「二階からツバキ」(Antenna Media, 京都, 2015)、「あと3秒の我慢だった」(blanClass, 神奈川, 2015)、「whisper - amplifier」(各地, 2014~)、「It is no use crying over split milk.」(nam gallery, 東京, 2014)、「I / / / / my ( ) 遠いところにむすんでみる、近いところをほどいてみる」(東麻布Vague - ambiguous gallery, 東京, 2013)など。また、演劇ユニット「始末をかく」プロジェクトの参加メンバー。様々な場で立ち現れる境界に躙り寄って 出会いかたの幅をはかること に着目し、インスタレーション・音声・身体・映像などを用いて制作を行う。


《whisper-amplifier case1》Antenna Mediaでの展示風景、2015年


主催:社会の芸術フォーラム
企画:井上文雄
協力:HIGURE 17-15 cas路地と人ARTISTS’ GUILDCAMP

<お問い合わせ>
社会の芸術フォーラム
society.art.forum@gmail.com(担当:井上)

<会場のハンドアウト>


【 A 】村田紗樹 《まえがきとプロローグ、そしてしおり》
2015年 インスタレーション
映像、モニター、木材等
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朝、毎日都心に数えきれないほどの会社員を運ぶラッシュアワーの電車。溢れかえる人の隙間で、どんな姿勢をとるべきなのか。

【 B 】村田紗樹 《タイムカード》
2015年 インスタレーション(芳名帳)
タイムレコーダー、タイムカード、ホルダー
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①これは、この展覧会の芳名帳です。 ②ギャラリーに入ったら、タイムカードの緑の面に名前を書き、「入」にオレンジのランプを合わせて、タイムレコーダーに挿入して印字してください。 ③ギャラリーから出る時、今度は「退」にランプを合わせて、印字してください。 ④ご自身の名前の頭文字をホルダーの五十音から探して、そちらに入れてください。 ⑤会期中、二度目以降に来場した場合は以前ご自身が記入したタイムカードに、同じ手順で再び印字してください。

【 C 】飯山由貴 《あなたの本当の家を探しにいく》
2013年 映像(34分)
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2013年の秋冬くらいに、わたしの妹が「本当の家を探しにいく」といって、外に飛び出していこうとしました。いつもだったら外は危ないよ、外聞が悪いよ、と、母と2人でひきとめるのですが、その時は、このまま探しにいってみてもいいんじゃないのかな、と思ったのです。なので別の日に、実際に「本当の家」を探しにいってみました。その時の映像です。妹とわたしはそれぞれ頭に小さいカメラをつけて歩き、編集で、ふたつの風景を重ね合わせています。
※詳細(PDF

【 D 】飯山由貴 《何が話されているのか、また何故その発話の形式と内容は、そうした形をとるのか》
2015年 映像(45分)
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「稲生平太郎物語」(稲生物怪録とも呼ばれる)は、江戸時代中期に備後三次藩藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語です。王子脳病院の資料を見せていただく中で、ある医師が幻聴や幻覚のひとつの例として、その物語を研究していたことを知りました。また、王子脳病院の症例誌(診療録)のなかには、患者が書いた手紙やメモなどが残されています。それらの、患者の手によって書かれたもののひとつが「痴人の夢物語」です。作者は東京でタクシー運転手をしていた「北の」という人です。別々の時代の、別々の2人が体験したことを、現実にわたしや家族、友人がなぞっています。

【 E 】飯山由貴 《hidden names》
2014年制作、2015年再編集 映像(46分)
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昭和期まで東京にあった王子脳病院の症例誌(診療録)を重要な資料として、歴史研究を行う研究者へのインタビューです。精神医療に関連する場所(かつての病棟や、民間治療の場)の風景や、患者の生活や文化に関連する資料のイメージを引用しています。

【 F 】飯山由貴 《診療録と看護記録と未来のピクニックについて》
2015年 テキスト
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《hidden names》を制作する過程で、診療録と看護記録について知ったことや、作品を通して知己を得た看護師と話を重ねる中で、現在の医療記録を読んでみたいと思いました。妹に相談したところ、彼女も読んでみたい過去の入院の資料がある、と許可してくれたため、その二つの書類の申請を行いました。そうした記録の別のあり方について検討する試みです。

【 G 】髙橋耕平 《HARADA-sanへの身勝手な応答-伝言と》
2015年 壁にスクリーンプリント、他
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はらださんが作者に宛てた伝言メモと、それに対し勝手な応答を記した作品。伝言メモははらださんが生活保護を受けながら生活支援施設に入所していた時期、作品《HARADA-san》の撮影を始めて直ぐの時期に受け取ったものである。また応答のテキストはそれから2年後の2015年に書かれたものである。

【 H 】髙橋耕平 《HARADA-sanへの身勝手な応答-音楽と編物と》
2015年 HD VIDEO(16分34秒)
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はらださんが携帯電話で作曲した音色と、はらださんが日常的に行う編物の手つきに対し、作者が身体で応答を表した作品。映像はカメラを互いに持ち合い記録。

【 I 】髙橋耕平 《HARADA-sanの脚と道案内》
2015年 壁にスクリーンプリント、他
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はらだの脚をモチーフにしたシルクスクリーンと、《HARADA-san》を上映する場所への道案内。モチーフの脚は、作者がはらださんにお金を貸す際、撮影中のビデオカメラを地面に置き、そこに映った姿。

【 J 】髙橋耕平 《HARADA-san》
2013年~ HD VIDEO(58分52秒)、テキスト、パネル、他
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京都に住む初老のアートウォッチャー:はらださんを題材にしたドキュメンタリー映像と、はらださんの個人年表からなる作品。

※はらださん:京都在住のアートウォッチャー。編物を得意とし、若いアーティストや芸大・美大生に手編みの帽子をプレゼントすることが屡々ある。長年ビルの管理人をしていたが定年に伴いホームレスになる。現在は年金と生活保護の収入により安定した居住場所を得て生活。67歳

【 K 】田中良佑 《Over the Ocean》
2015年 映像(1時間30分)、写真、那覇で買った土産袋
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 この映像作品は、僕が今年の10月から11月にかけて沖縄の「コザ」という町に滞在しながら制作したものです。「コザ」は、「極東最大の空軍基地」という嘉手納空軍基地の目の前に広がっています。僕は、コザのメインストリートであり、嘉手納空軍基地第二ゲートに直結している大通り「ゲート通り」に49年間店を構えているタコス屋「OCEAN」を訪れ、入り浸り、その店長 屋良 靖さんと、お店に訪れる様々な立場のお客さんに話を聴く映像作品を制作しました。
 “コザ” その名前は一度聞いた時から、僕の耳に強く遺り、離れませんでした。その不思議な響きは、今から70年前、1945年にアメリカ軍が沖縄本島に上陸した時から生まれたそうです。上陸したアメリカ軍は、本来「越来村(ごえくそん)」という名だったその場所に、軍事施設や難民収容所を建て、その一帯を「KOZA」と名付けました。その由来は、隣接する「古謝(こじゃ)」「胡屋(ごや)」という地域の名前が混ざったもの等と言われていますが、はっきりとはわかっていません。現在「コザ」は、1974年に隣接する美里と合併し「沖縄市」となり、正式な地名として存在していませんが、今でもその場所は、かつての米軍統治時代の色を遺す混沌としたイメージとして、沖縄の多くの人に「コザ」と呼ばれているようで、2015年に何の知識も無く立ち寄った僕もいとも簡単にすぐここがコザであることをわかりました。
 今年の8月、僕は映画撮影の手伝いに誘われ、高校3年生の修学旅行ぶりに沖縄を訪れました。高校3年生の時には見えなかったり感じなかった想像を遥かに超えた沖縄の美しさと哀しみに激しく混乱し、言葉も出ず立ち尽くしました。その時に僕は、もっとこの場所に長く滞在して「沖縄」のことを少しでも知りたい、なにかをわかりたい分かち合いたいと強く思いました。なかでも「コザ」に滞在したのは、その地域だけポッカリと虚空に浮かんでいるような、捉えがたく頭が全く追いつかない衝撃を、最も受けた場所だからでした。その”わからない”場所に住む事が、僕にとって「沖縄」を少しでも知るきっかけになるかもしれないと信じ込み、僕はその場所に滞在することを決めました。
 「OCEAN」。初めてその水色の看板を見た時から、僕は何故か無性に気になって気になってしょうがなかったお店。この滞在で、「OCEAN」の人々に話を聴いた理由は、うまく言えない。嘉手納空軍基地の目の前、米軍統治時代からのお店という前に、僕は「OCEAN」から滲み出る、人を突き放しながらも優しく受け入れるような空気のようなものを感じて、本能的に、この場所の人に話を聴きたい、と思いました。それは、理解りえないものへの断絶感と、身勝手な憧れと、わかちあえる部分が必ずあるかもしれないという希望のような感情を同時に、「OCEAN」の佇まいに感じたからかもしれません。その場所で僕は、同じ時代を生きるものとして、違う場所で生まれ育った者として、わかりあえないものとして、わかりあえるかもしれないものとして、とにかく、今まで聞いた事のない話を、聴き続けました。
※この映像の中で話されている内容は全て一個人の話であり、総意や事実というものでは決してありません。

【 L 】田中良佑 《明日のすべて》
2015年 写真、冊子
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 この作品はフリーですので、お一人さま一冊づつご自由にお持ち帰りください。沖縄に訪れる際、どうしても、自分の中の「観光者」としての視線を止められなかった。または、「記号」を探してしまうような「観察者」としての視線を、僕は止められなかった。しかし、そんな内なる視線が、凄く嫌だった。もっと普通に接したかった。でも、止められないし、沖縄の人にとって僕は『内地の人』『本土の人』だし、実際そう呼ぶから、なおさら止まらない。
 それでも僕は、その観光者であり、内地の者、であることを、悲しいけど一度認めないと、関係ができない気がした。だから、修学旅行で沖縄に行った時を思い出して、滞在中「使い捨てカメラ」で沖縄を撮った。その不安定でくすんだ、内なる視線は、絶えず僕を反省させながら、それでもフィルムを回した。

【 M 】荒木悠 《カントリー・ミュージック(ノーバディ・ノーズ・ザ・ワーズ ノーバディ・キャン・シング・イット ノーバディ・アンダースタンズ・イット)》
1869年/2015年 音(1分21秒)、屋外スピーカー、アンプ、iPod
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屋上のスピーカーから英国人J・W・フェントン作曲の初代『君が代』をカントリーミュージックに再制作した音がある時間に流れる。
演奏・録音:Dan Schafer 協力:石川 恵

レクチャー #5(社会的包摂/排除に関して)「ジェンダーとセクシュアリティ」

田中東子氏(大妻女子大学)をお迎えし、当フォーラムの竹田恵子氏(東京大学、お茶の水女子大学)とともに、第四回フォーラム「アートをめぐる包摂と排除」のフォローアップを実施いたします。とくに「ジェンダー/セクシュアリティ」に焦点をあて、フォーラムにおける議論と関連させながら、さらなる課題を探ります。

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レクチャー #5(社会的包摂/排除に関して)「ジェンダーとセクシュアリティ」
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日時:2016年1月22日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:田中東子(大妻女子大学)、竹田恵子(東京大学、お茶の水女子大学)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※定員を超えましたので、募集を締め切ります。ありがとうございます。

田中東子|Touko Tanaka
大妻女子大学准教授。早稲田大学大学院政治学研究科満期退学。博士(政治学)。第三派フェミニズムの視点から、現在のメディアにおける動向や若い女性たちの文化実践について研究している。主著に『メディア文化とジェンダーの政治学 第三派フェミニズムの視点から』(世界思想社)、共著に『メディア・コミュニケーション論』(ナカニシヤ出版)、『現代ジャーナリズムを学ぶ人のために』(世界思想社)などがある。

第四回フォーラム「アートをめぐる包摂と排除」

「美術館は敷居が高い。」これは現在でも聞かれる言葉でしょうか。来る者を拒むような高踏的な存在として美術館が認識されてきたことは否定しがたい事実です。また、こんな言葉も聞いたことがあります。「分かる奴だけに見せてやってもいい。昔はそんな意識だったよね。」。こう語ったのは、国立のミュージアムの研究員から大学の教授へと転身し、定年退職した後に公立美術館の館長も務めた人物の口から出た言葉です。とても人望があり、問題発言などあまり聞いたことのないその方が言うように、そんな意識が常識であったというのなら、美術館の敷居は、美術館の側で意図的に高くしてきたものであったということになります。つまり美術館は多くの人に開かれた場でありながらも、そこへアクセスするには、作法として一定の専門的知識を身につけていなければならず、その条件を満たしていない奴には参加資格はないのだということです。こうした排他性を正当化できるのは、アートには絶対的に価値があり、その素養を身につけていないものは野蛮だ、という意識に他なりません。

排他性、排除の原理は、何も美術館を運営する専門家の側ばかりが持っているわけではありません。専門家の側につくことで、自分の存在を「選ばれた側」「分かっている側」に置きたい多くの美術鑑賞の愛好家たちが存在することも事実です。高級な文化に位置づけられる美術に自分が所属すると自認し、他にその属性を顕示することで自他の差異を強調し、「教養ある私」の他への優越性を確認する、こうした態度は、一般鑑賞者のみならず、美術館やアート・フェスティバルのボランティアなどにおいて今でも見られるものかもしれません。

こうした排除を基本的原理とする傾向は、建築のあり方にさえ垣間見えます。70年代の美術館建設ブームまでの美術館建築は、ぶつかれば大けがをしそうな硬い印象を与えるものが多く、外から内部をうかがうことの出来ないまるで入ることを拒むかのような構造のものばかりでした。しかし21世紀に入って以降は、たとえば金沢21世紀美術館のSANAAによる建築では、外からは内部の様子が丸見えで、館内には無料の観覧エリアもあり、外と内との境界線がきわめて曖昧な建築になっています。その後に続くものも概ねそうした開放性や境界の曖昧さを意図的に有していると言って良いでしょう。

こうした建物の構造や意匠同様、昨今のアートの現場は、おしなべて敷居を下げることに躍起になってきたように思います。美術館では教育普及事業が注目されるようになり、教育担当の専門職が公募されるようになり、ミュージアム・エデュケーションを専門とする研究者も見られるようになりました。さらには、地域で展開されるアート・フェスティバルや参加型のアート・プロジェクトなどが、全国各地で開催されるようになり、多くの一般市民が鑑賞者として、ボランティアとして、あるいは作品制作のプロセスへの参加者として、アートの世界に“包摂”されているように見えます。

視点を変えれば包摂と排除の力学は、展覧会の鑑賞者、アートイベントの参加者ばかりに向けられているわけでもありません。現実の社会の中では、様々な立場、セクターから、何が作品であり、何が作品でないかの判断がなされるケースもあります。展示することの拒否や検閲という形で包摂と排除の力学が政治的かつ美学的な関心のもと行使され、度々「表現の自由」をめぐる問題として表出しますが、これは、美術の専門家ばかりが行使するわけでもありません。見る主体としての私たちは、それぞれ何を見たいのか、見るべきなのか。それとも見たいものしか見ようとしないのか…。昨今のヘイト・スピーチをはじめとする不寛容な社会的傾向、そして自主的に“何かに配慮し”自己規制する空気とも底でつながっている問題でもあると考えます。



包摂と排除。何に誰を包摂し誰の何を排除するのか、語る立ち位置によってそれは変わってくるはずです。マジョリティによる「同化」として包摂が意味されるのならば、それぞれの多様なあり方は許されなくなります。これは当フォーラムの多文化主義の回での議論にもつながるものですが、そこで同化を拒みつつ、何かに関わること、そしてそれに積極的な意味を与えることは可能なのでしょうか。さらに言えば我々は何に包摂されるべきなのでしょうか。

アートの世界、アーサー・ダントの言うアートワールドでは、アートの論理が絶対であり、アートそのものへの疑いは許されません。アートの理論は、常に更新されつつアートワールドを支えてきました。その理論を踏まえない石頭はその世界の住人になることは出来ません。もしこうしたあり方が、アートの活動が社会の様々な領域にあふれ出ている今でも自明視されているなら、われわれはアートに新しく関わりを持とうとする人々をアートワールドに包摂することを、マジョリティとして彼らを同化することを、目指しているということになるでしょう。それは、同化を拒む者を排除するという反応を当然含むことになります。「パブリック」である、ということを前提にするなら、もちろん、そんなことは正当化しえないはずです。また、アート・フェスティバルなどを町おこしや経済振興に用いようとしている人たちは、多様な主体としてのアートに連なる人たちを、経済や共同体の規範など自分たちの行動原理に従わせ、同化しようとしているのでしょうか。もしそうでないなら、どのような対話が行われ、どのような変化が双方にもたらされることを予感し、期待しているのでしょうか。それともそんな期待や覚悟などはないのでしょうか。私たちが包摂されるべきなのは何に向けてなのでしょう。こうした視点をもたないまま、アートが開かれていき、境界線が曖昧になっていく現状がもたらしているのは、アートという行為やそれに伴う価値を宙づりにする状況なのではないかと危惧します。



今回のフォーラム「アートを通した包摂と排除」では、こうした問題について議論したいと考えています。これまでのフォーラム同様、まず問題を考える上での基本的視座について、アート外の研究者からご報告いただき、アートの側からの事例報告および問題提起を行い、議論を深められたらと考えております。社会における包摂と排除についての基本的概念や、関係性についてお話しいただくのは、沖縄出身者のアイデンティティ形成についての著作『同化と他者化』を著した社会学者の岸政彦さん。地域におけるアートの活動展開がはらむアーティストの立場の二重性について、市原の月出工舎を運営しつつ妻有の大地の芸術祭などにも出品しているアーティストの岩間賢さんからお話しいただきます。この二重性は「搾取」へとつながる危険性もはらみます。そして、「他人の時間」展や「ここはだれの場所?」展などの展覧会を通して、アートワールドの論理とは異なる社会とアートの接続点を模索している東京都現代美術館キュレーターのチェ・キョンファさんにお話しいただくのは、他者への寛容性を欠く「排除」の傾向を強める今の社会状況の中で美術館ができることとは、そして美術館は誰を包摂し誰を排除してきたのかについて論じていただく予定です。発表者の報告へのコメントをアーティストの白川昌生さんにいただいた後、登壇者、コメンテーターに加え、フォーラム共同代表の北田暁大、神野真吾、運営委員の竹田恵子による議論をしたいと考えます。師走のお忙しい時期ではありますが、ぜひご参集ください。

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第四回フォーラム
アートをめぐる包摂と排除
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日時:2015年12月12日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/5zOyXnhDqM
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者・コメンテーター 】
岸政彦(社会学・龍谷大学)
岩間賢(アーティスト・月出工舎)
チェ・キョンファ(キュレーター・東京都現代美術館)
白川昌生(アーティスト)

【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)

レクチャー #4「搾取」

吉澤弥生氏(共立女子大学)をお迎えし、社会の芸術フォーラム共同代表の北田暁大氏(東京大学)と第三回フォーラム「搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者」のフォローアップを実施いたします。

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レクチャー #4「搾取」
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日時:2015年11月9日(月)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:吉澤弥生(共立女子大学)、北田暁大(東京大学、社会の芸術フォーラム共同代表)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

吉澤弥生|Yayoi Yoshizawa
共立女子大学文芸学部准教授​、​NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト[recip]理事​、​NPO法人アートNPOリンク理事​。大阪大学大学院修了、博士(人間科学)。専門は芸術社会学。労働、政策、運動、地域の視座から現代芸術を研究。近著に論文「大阪の現代芸術事業の周辺で起きたこと」(『上方芸能』191号、2014)、単著『芸術は社会を変えるか? —文化生産の社会学からの接近』(青弓社、2011)、調査報告書『続々・若い芸術家たちの労働』(2014)など。また​​recipでは東京​都との協働で『「莇平の事例研究」活動記録と検証報告』​(2014)、​アートNPOリンク​では文化庁委託事業として​『アートNPOデータバンク2014-15』(201​5​)​など​を制作。

第三回フォーラム「搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者」

言うまでもなくアートワールドも貨幣経済と無縁ではない世界です。美術館やギャラリー、アーティスト、キュレーター、コレクター、企画会社、新聞社、公的機関…多数のアクターが、金銭を媒介としたコミュニケーションを営み、そのなかで労働と賃金の配分がなされています。アートワールドの「下部構造」に焦点を当てる論考は数多くありますが、それらの知見の蓄積がはたして現代日本のアートワールドの現状に何らかの貢献をしているかと問われれば、口をつぐむしかありません。

芸大・美大といった教育システムによって次々と人材は生み出され、アートギャラリーなどのショーを通じ、有名性や「業界的評価」を元手に資金を回していく市場があります。また一方では、旧来のギャラリー、ミュージアムを中心としたアートワールドの現場以外にも、地域におけるアート・プロジェクトやフェスティバルが数多く行われるようになるにつれて、そうしたキャリアパスと無関係にインディペンデントにアートの実践を繰り広げていく人びとも増えてきています。純粋に作品のやりとりによって経済がまわるだけでなく、公的機関からの助成をはじめとする資金もまた、この業界をめぐるお金のうち大きな部分を占めています。アートワールドに生きる者がどんな経歴を持つにせよ、経済的な市場の論理と公的資金との組み合わせのなかで、アートという実践=労働や、労働の成果物=作品への対価を、貨幣価値に換算し、生活者としてのアーティスト、アート関係者の「生」は維持されているはずです。東日本大震災以降は、復興や地域振興の名のもとに公的資金が多く投下されていますが、もちろんアートワールドにもその影響は及び、浸潤しつつあります。そうした傾向は2020年の東京五輪まで続くだろうことは容易に想像できます。震災以降緩やかに流通しはじめたそうした資金はオリンピックをピークとしたある種の「バブル」を芸術界にもたらすでしょう。しかし、それははたして生活者としてのアーティストのあり方をサステナブルなものとすることにつながっていくのでしょうか。

本フォーラムで考えてみたいのは、作品や労働の価値が貨幣によって表現されるときに起こっている事柄、つまり「剰余価値」の搾取についてです。たとえば美術館での企画展示において、作家に支払うべき対価はどのように決まっているのでしょうか?「美術館で」の実績は、美術制度における評価の機能を美術館が専ら担うようになっている状況では、とてつもなく大きな意味を持つでしょう。その場合、自分の労働の対価と制作に充てる制作費との境界は、アビングが言うように、対価を削ってでも制作費に投じるという傾向を持っているはずです。同時に、アーティストを選ぶ側はそれを見越して、対価を少なく見積もることも出来るかもしれません。また近年盛んになっている様々なアート・プロジェクト、フェスティバルでは、多くの若手アーティストたちが自らの表現の追求のために献身的に取り組むばかりでなく、そしてそうした作品の実現や鑑賞機会の提供のために、多くのボランティアが集まって、様々な実践が展開されています。

こうしたこと全てを否定的に捉えるべきものではありません。しかし、問題なのは、そうした場で行われている等価交換(作品の価値・労働の価値と貨幣価値との交換)が、どのようなメカニズムにおいてなされているか、ということです。アーティスト一人一人は、展示の機会を求めて、あるいは社会的貢献を求めて、自らの労働を投下した作品を提供します。そしてキュレーターやディレクターはそれに対価を支払います。これが基本的な関係になりますが、たとえアーティストが手弁当で赤字を出したとしても「社会貢献」「展示機会の獲得」といった価値が、貨幣的価値のマイナスを補うと当人が自覚していれば、それは間違いなく自由な労働と賃金の等価交換だと言うことができます。ボランティアについても同様のことが言えるでしょう。

しかし等価交換であることは搾取の不在を意味するものではありません。マルクスの『資本論』の本義に立ち戻って言えば、搾取とは、システムとしての等価交換から剰余価値が生み出されるカラクリの胆にほかなりません。マルクスの場合は投下された労働価値が等価交換を経て剰余価値を生み出すプロセスが問題となっているわけですが、アートの場合、この「価値」そのものがきわめて多義的であり、それゆえに搾取の構造もまた多様なものとなっている点に特徴があります。「これは社会的な価値を持つから」「貨幣に還元されない価値が芸術にはあるから」「アートは単なる労働ではないから」…といった常套句が、アートという実践の「価値」の測定を難しくし、したがって「搾取」のあり方を不分明なものとしているのではないでしょうか。

そもそもマルクス主義の文脈においても、等価労働の「価値」がいかにして「価格」に転化するのか、ということをめぐり多くの論争がなされてきました(転形価値論争)。目に見えない理念的ともいえる価値が、いかにして価格に転化するのか、このメカニズムが不明であれば、そもそも搾取(資本家による剰余価値の搾取)という構図が成り立つのかどうかが怪しくなってきます。工業単純労働を典型とした労働価値/価格ですらそうした理論的困難を伴っているわけで、それが「作品の価値」「作者の才能」「労働ではなく活動」といったきわめて近代的な価値概念を前提としたアートワールドにおいてより錯綜したものとなることは明らかです。アートという実践ははたして「労働」なのか、価値を生むのは「製作者の才なのか作品そのものなのか」、価格に還元されない美的価値の交換とは何か、といった難題がわたしたちの前に横たわっています。

今回のフォーラムでは、こうしたアート概念そのものの問い直しをも迫る「搾取」をめぐり、「ボランティア」の贈与的性格を実証的・理論的な側面で明らかにした仁平典宏氏(教育社会学)、制作において、取材対象との関係、制作における様々な共同性においてこの問題を考え続け、またアーティスツ・ギルドのメンバーでもある―藤井光氏(アーティスト)、ディレクション、キュレーションの観点からアートワールドの構成に携わってきた蔵屋美香氏(キュレーター)とともに、「社会科学」「アート実践」「ディレクション」の三側面から、考察を深めていきたいと思います。

「自分は搾取などされていない!」という否認は、はたして搾取の不在を証言する言語行為といえるでしょうか。実はそれ自体が搾取の存在を遂行的に指し示してしまっている、無自覚的に容認してしまっているとはいえないでしょうか。「生活者としてのアーティスト」に関心を持つ/持たざるを得ないみなさんのご参加を期待しております。

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第三回フォーラム
搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者
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日時:2015年10月17日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/Y30ILr365z
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
藤井光(アーティスト)
仁平典宏(教育社会学・東京大学)
蔵屋美香(キュレーター・東京国立近代美術館)

【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)

リサーチ06 / 荒木悠×飯山由貴×髙橋耕平×田中良佑×村田紗樹

社会の芸術フォーラムでは12月に展覧会を開催する予定です。今回は、参加アーティストの荒木悠、飯山由貴、髙橋耕平、田中良佑、村田紗樹にそれぞれキーワードを挙げていただき、それをもとにゆっくり話し合う予定です。

<キーワード>
・ラベリング
・今という物差し
・つくりかた
・見えない人、生き物、もの、ものごと
・制作をつづけること、中断すること、終らせること
・なにもしたくないとき
・歴史についての個人的な引き受け方(国家の歴史、ローカル史、個人史)
・関係を作ってしまうこと/無関係でいること(他者への介入の可能性とその責任)
・他人の金で制作すること(公的助成金、スポンサーからの支援をうけて)
・平和
・当事者/非当事者
・それぞれの人生
・仕事と私事
・力まないでいること
・他人の気持ちを考えることについて考える


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リサーチ06 / 荒木悠×飯山由貴×髙橋耕平×田中良佑×村田紗樹
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日時:2015年10月5日(月)15:00〜21:00 ※受付開始は14:30
会場:art & river bank(東京都大田区田園調布1-55-20 #206)
定員:30人(予約不要/先着順) 参加費:無料(1ドリンクオーダー)

※途中参加/退場OK
※休憩時間の予定:16:45〜17:15、18:45〜19:15

<アクセス>
東急東横線「多摩川」駅西口より徒歩4分
http://www.art-and-river-bank.net/_site_jpn/information.html


荒木悠|Yu Araki
1985年山形県生まれ。2007年ワシントン大学美術学部彫刻専攻卒業。2010年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。近年の主な仕事に「オマー・ファスト展」映像字幕翻訳(TARO NASU, 東京, 2015)、悪魔のしるし演劇公演「わが父、ジャコメッティ」映像製作(KAAT神奈川芸術劇場、京都芸術センター、スイス三都市巡回, 2014)、core of bells「第四回月例公演:デトロイトテクノ人形」ナレーション出演(SuperDeluxe, 東京, 2014)など。昨年は都内2カ所で個展「WRONG TRANSLATION」(The Container)と「MOTHERLANDS」(実家 JIKKA)をほぼ同時開催。通訳・翻訳といった言語的活動の一方で、物事の伝播に伴う誤訳・誤解釈に着目した制作を展開している。ATC所属。
http://www.yuaraki.com/

飯山由貴|Yuki Iiyama
1988年神奈川県生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科油画科修了。主な展覧会に「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」(waitingroom, 東京, 2014)、「湯気 けむり 恩賜」(実家 JIKKA, 東京, 2013)など。ネットで購入したスクラップブックなど、どこかの誰かが作った個人的な記録を起点に制作をしている。ここ一年は、家族の1人が持つ幻覚や幻聴を再現する試みや、精神病院での医療記録や、ケアについてリサーチをしている。
http://yukiiiyama.flavors.me/

髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「still moving」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。イベントに「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/

田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka

村田紗樹|Saki Murata
1989年神奈川県生まれ。2013年東京造形大学絵画専攻領域卒業。主な展覧会やイベントに「二階からツバキ」(Antenna Media, 京都, 2015)、「It is no use crying over split milk.」(nam gallery, 東京, 2014)、「I / / / / my ( ) 遠いところにむすんでみる、近いところをほどいてみる」(東麻布Vague - ambiguous gallery, 東京, 2013)、「耳打ちの焦点」(blanClass, 神奈川, 2013)など。様々な場で立ち現れる境界に躙り寄りながら、インスタレーション・音声・身体・映像などを用いて制作を行う。ある制度化された環境で生じる圧力に、こっそりと抵抗するパフォーマンス作品《whisper - amplifier》を各地で展開。また、劇作家・岸井大輔による〈始末をかく〉プロジェクトの新作「茶屋建築に求めてゆかなければならぬ」に参加しており、10/12まで公演中。

レクチャー #3「多文化主義」

金明秀氏(関西学院大学)をお迎えし、第二回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」のフォローアップを実施いたします。

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レクチャー #3「多文化主義」
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日時:2015年9月18日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:金明秀(関西学院大学)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

金明秀|Myungsoo Kim
関西学院大学教授。量的データの統計解析を通じて社会階層論と社会意識論に関する諸問題について取り組む。在日コリアンについてのウェブサイト「ハン・ワールド」を主催。著書・論文に『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会、1997年)、「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」
(SYNODOS http://synodos.jp/faq/1965 、2012年)、「特別永住資格は「在日特権」か?」(SYNODOS http://synodos.jp/politics/11245 、2014年)、他多数。

シンポジウム01|過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」

『宇宙戦艦ヤマト』の放映が1974年、『機動戦士ガンダム』が79年、ガンダムシリーズの躍進とアニメ関連雑誌が隆盛する80年代に産み落とされた『風の谷のナウシカ』『ビューティフルドリーマー』、そこから『攻殻機動隊』(90年劇場公開)『新世紀エヴァンゲリオン』(95-6年)を経て、00年代に至るまで特異な形で発達した日本のアニメーションは、「未来」を描き続けてきました。もちろん未来を描き出すことは、70年代以降のアニメやまんがに特有のことではなく、それ以前のまんがやアニメ、そしてアニメ以外の領域でも「未来」は、その作者が描き出すその時点での未来社会への想像力を指し示すものであり続けてきました。しかし狭義のアニメコンテンツが、私たちの生きる現在が終焉した後の「未来」における日常や社会のあり方を精細にビジュアライズするようになってきたのは、やはり70年代以降に顕著な傾向であると考えられます。現在の終焉後の世界を描いた『AKIRA』、ギブソンの『ニューロマンサー』がともに80年代に生み出されたことも忘れるわけにはいきません。それらは未来を描き出すことによって、その未来において終焉した現在を描き出していたともいえるわけで、同時代的な社会批評でもあったと考えられます。

本シンポジウムでは、こうしたアニメーション、まんがにおける未来、つまり「過去の未来」の系譜をたどりながら、それらの作品・表象が想定していた「現在=未来の過去」への問題意識、批評的まなざしをたどり返し、「クールジャパン」といった標語で奇妙な形で持ち上げられてしまったアニメ・まんが文化の<現在>を考察していきたいと思います。

たしかに00年代以降も「優れた」と形容されるべき作品は多々生み出されてきました。いま米独仏などの海外の販売会、コスプレなどをみるかぎり、もっとも人気を博しているのは、『NARUTO』であり『One Piece』であり(少し前だと『涼宮ハルヒ』)、いずれも現在の終焉後に現れた「未来」というよりは、現在とは異なる可能世界のあり方が描かれているように思います。『ビューティフルドリーマー』はその可能世界が日常から染み出してくる姿を描き出したという意味で、「未来」の時代である80年代において特異な位置にあったわけですが、現在では、「他なる現在」を舞台とすることがひとつのデフォルトになっているようにも思えます。少なくとも、「グローバリゼーション」のなかで広がっている作品にそうした「他なる現在」を扱ったものが多いことは事実といえます。

また、過去にさかのぼっても「ここではないどこか」として「未来」が参照点となっていた作品の多くは「男の子」向けであり、「女の子」向けの場合、それは西欧であったりアメリカであったり、あるいは時間軸を設定しえない別の現在世界でした(萩尾望都、竹宮恵子の「未来」は、男性群向けのそれと同じものといえるでしょうか?)。仮に「他なる現在」という時間意識が男女向けともに前景化しているのだとすれば、そこに何かの徴候を読み取ることができるようにも思えます。

こうした「未来」と<現在>の関係のあり方の変化は何を意味しているのでしょうか。またその変化と現在のアニメ・まんが産業が置かれた状況、海外での展開などはどのようにかかわっているのでしょうか。本シンポジウムでは、日本のアニメ・まんが史を学術的研究の対象とする嚆矢となった大塚英志氏、過去の未来像の系譜から社会意識の変容を読みとく『未来の社会学』の著者である若林幹夫氏、ドイツを拠点とし、アート・ディレクターの立場から『プロト・アニメカット』展などをプロデュースされてきたシュテファン・リーケレス氏、「やおい」をめぐる受容者たちの社会のあり方を鮮明に描き出した東園子氏をお迎えし、まんが・アニメ史、社会学、アートとしてのアニメ・まんが表象、コンテンツ産業論、受容論など様々な観点から「過去の未来」を分析し、未来の過去としての現在のあり方を照射していきたいと思います(司会・北田暁大)。多くの方がたのご参加をお待ちしております。

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国際シンポジウム01
過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」
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日時:2015年8月29日(土)11:30〜14:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
大塚英志(民俗学・国際日本文化研究センター)
若林幹夫(社会学・早稲田大学)
シュテファン・リーケレス(メディアアート)
東園子(社会学・大阪大学)

【 司会・進行 】
北田暁大(社会学・東京大学)

第二回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」

ここ数年来、日本国内でヘイトスピーチが顕在化し、とうの昔に学術的には埋葬されたはずの「単一民族神話」がマスメディアにおいても垂れ流されています。日本国内の現状では、多文化主義、また多文化主義からの議論の発展も黙殺される危機にあるといってよいでしょう。そもそも日本では、多文化主義という状態は果たしてあったのでしょうか。 自らのアイデンティティを問わずにいることができるひとたちの表現が、私たちの日常を覆い隠しているかのようです。そのようななかで、アーティスト等、文化の担い手はどのような実践を重ねているのでしょうか。

また、日本よりはるかに深度をもって現実の制度を組み立てていると思われるヨーロッパにおいても、同様の問題が噴出しています。政治権力に対する風刺という表現の自由を伝統としてきた「共和国」において民族的・宗教的マイノリティたちは、その共和国の伝統と信仰の間でたえず日常を問い返すことを余儀なくされています。記憶に新しい「シャルリ・エブド事件」はそうした「文化戦争」が顕在化する契機となったといえるでしょう。

一方、現代美術においては、「大地の魔術師展」(1989年)以降、非西洋文化に対する関心が、ポストコロニアルな思想やグローバリゼーションとも関係しながら、欧米以外の美術家に対する注目を促してきましたが、その文化理解には問題も指摘されています。

「第二回社会の芸術フォーラム」は以上のような社会学、憲法学や美術史からの多角的な視点を踏まえた議論を行います。アーティスト、キュレーター、評論家、研究者など、様々な立場で芸術に関わる者は、自らの文化的立ち位置を自認しないことには、世界の中でその表現を問うことが成立しないと思われます。多文化主義について考えることは、日本において芸術に関わろうとする者全てに自分の文化的立ち位置を確認することの契機になると考えます。

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第二回フォーラム
問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容
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日時:2015年8月29日(土)14:30〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
志田陽子(憲法学・武蔵野美術大学)
韓東賢(社会学・日本映画大学)
加治屋健司(美術史、表象文化論・京都市立芸術大学)
リュウ・ルーシャン(アーティスト)
山本高之(アーティスト)

【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)

東京都現代美術館の「撤去要請」問題について

「社会の芸術フォーラム」は、東京都現代美術館の「おとなもこどもも考える ここはだれのばしょ?」展における、会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)による作品《檄》をめぐる一連の出来事について高い関心を寄せております。

美術館の公式見解を現時点で明確には得られていないので、本フォーラムからの問題提起等については今後の経過をみながら、適宜速やかに行っていきたいと思います。いずれにせよ、美術館という公共的・社会的な教育・展示施設のあり方について、広く社会的・芸術学的・公共政策的・法的な議論が深められる必要があると考えます。

そのための開かれた議論の場を、「社会の芸術フォーラム」でも用意したいと考えています。


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社会の芸術フォーラム
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北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)
粟生田弓(写真研究)
小倉 涌(アーティスト)
藤井 光(アーティスト)
竹田恵子(文化研究)
豊嶋康子(アーティスト)
田中功起(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
加治屋 健司(美術史・表象文化論)
長谷川 仁美(キュレーター)
井上文雄(CAMP)
成原 慧(法学)

レクチャー #2「公共性」

ハンナ・アーレントの思想研究をなさっている間庭大祐氏(立命館大学)をお迎えし、社会の芸術フォーラム共同代表の北田暁大氏(東京大学)と第一回フォーラム 「公共性(Public Sphere):「社会的なもの」と公共性の微妙な関係」のフォローアップを実施いたします。とりわけ以下のようなことを目的としたいと思います。
1)第一回フォーラムにおいて言及されていたことを参考として「公共性」概念の復習をおこなう、さらに各論者を比較し、概念のズレをマッピングする
2)第一回フォーラムの各登壇者の議論の方向性について再確認する
3)さらにフォーラムの議論の補足を行う
お気軽にご参加ください。

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レクチャー #2「公共性」
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日時:2015年7月23日(木)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:間庭大祐(立命館大学)、北田暁大(東京大学、社会の芸術フォーラム共同代表)
定員:50人

<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします

間庭大祐|Daisuke Maniwa
1983年生まれ。立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程満期取得退学。研究業績として、「自由の創設と革命的暴力の間:H・アレントのフランス革命論における同情のテロル批判をめぐって」『立命館産業社会論集』(50巻4号、2015年)、「抵抗の政治、政治への抵抗:H・アレントの市民的不服従論における「暗黙の同意」概念をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』(105号、2015年)、「公的領域の可謬性と抵抗としての活動:H・アレントにおける「始まり」の恣意性と市民的不服従について」『唯物論研究年誌』(19号、2014年)、「差別の政治化:アレントの全体主義論からヘイトデモを考える」『図書新聞』(3185号、2014年)等。

レクチャー #1 ルーマン『社会の芸術』解読

【 講義の記録 】
http://socio-logic.jp/luhmann_acc/201507_KdG.php

【 主催者から 】
このたび、ルーマン・フォーラム管理人をしていらっしゃる酒井泰斗氏を講師にお迎えし、ルーマン『社会の芸術』を解読する催しを下記の目的・対象向けに開催することになりました。関心をお持ちの方のご参加をお待ちしております。(「社会の芸術フォーラム」事務局 竹田恵子)
(2015.5.29 追記) なお、本講義は「社会の芸術フォーラム」の連携企画となりました。

<目的> 初学者には難解といわれるニクラス・ルーマン「社会の理論」シリーズのなかの『社会の芸術』を取り上げ、社会学専攻か否かを問わず、芸術と社会をめぐる分野に関わる者にも理解できる読解の仕方をご講義いただく。これにより、「社会の芸術フォーラム」における議論や理解の精度を上げることを目的としている。
<対象> 特にソーシャリー・エンゲイジド・アートや、アートプロジェクトの研究、パフォーマンス研究、カルチュラル・スタディーズ、文化政策の分野の研究者、大学院生、実践者、独学者。「社会の芸術フォーラム」参加予定者。

【 講師から 】
『社会の芸術』は「芸術と社会の関係」について記した本ではありません。その点で、ひとが いわゆる「芸術社会学」に期待するものとは異なるかもしれません。そうではなく、この本は、
・芸術(に携わるということ)とは、どのような社会的営みなのか
・現在ではありふれたものとなった それらの営みは、どのような点で(歴史的に、また他のことと比べて)特殊なものなのか
・それらの営みは、どのような仕方で 社会をかたちづくる差し手となっているのか
・芸術という営みとそれが創りだすものが こんなにも多様であることは、いかにして可能となったのか
といった論題を きわめて分かりにくく論じたものです。

この講座では、受講者が社会学(そしてルーマンとその著作群)に関する知識をすでに持っていることを前提せずに、ルーマンのテクスト特有の分かりにくさを多少なりとも軽減する読み方の提示を目標とします。

芸術に携わる多くの皆さんにとって ── 特に、「次にはどんな新しいことをしようか」、「いまある状況はどのように変えるべきだろうか」といったことに関心を持っている方にとって ──、ルーマンが扱っている上記の論題は 強い関心を引くものではないかも知れません。とはいえ、先(未だ現実化していないもの)を見ようとすることだけではなく、その手前あるいは足元にあるもの を省みることにも時間を割く余裕のあるひとにとってなら、ルーマンのテクストに付き合うことには意味があるでしょう。講師としては、読みにくいテクストに付き合いながら・すでに見えているもの を振り返るために多少の手間暇をかけてみようとする方が 関東近隣にも20名くらいは いることを期待しています。そしてまた実際に芸術に携わっている受講者の皆さんの省察から 多くのことを学ぶことができるだろうことにも。(酒井泰斗)

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レクチャー #1-1 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2015年7月9日(木)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-2 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2015年9月29日(火)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-3 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2016年2月15日(月)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-4 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2016年4月18日(月)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

===
レクチャー #1-5 ルーマン『社会の芸術』解読
===
日時:2016年7月4日(月)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

===
レクチャー #1-6 ルーマン『社会の芸術』解読
===
日時:2016年10月10日(月祝)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-7 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2016年12月1日(木)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-8 ルーマン『社会の芸術』解読
===
日時:2017年1月19日(木)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人

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レクチャー #1-9 ルーマン『社会の芸術』解読
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日時:2017年3月9日(木)19:00~21:00
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細は参加者用メーリングリストにてお伝えします)
講師:酒井泰斗(会社員/ルーマン・フォーラム管理人)
定員:50人


<参加申込>
運営は Google Groups で行ないます。参加を希望される方は、下記項目を記し、
件名を「ルーマン『社会の芸術』解読 参加希望」としたメールを luhmann.lec(at)gmail.com までお送りください。
※「(at)」を「@」に変更してください
===
1. 氏名(漢字+フリガナ)
2. Googleアカウント
3. 所属
4. 自己紹介(研究領域や関心など)
※本講義には非常に様々なバックグラウンドをお持ちの方が参加しています。自己紹介は、そうした中でディスカッションをおこなう際の、最初の一歩となるものです。あなたがディスカッションの相手にどの程度の自己開示を求めるかをよく考えた上で、それに見合う自己紹介を行ってください。
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※Googleアカウント以外の情報はメンバー間で共有されます。


酒井泰斗|Taito Sakai
会社員。ルーマン・フォーラム管理人(http://socio-logic.jp/)。論文・著書として「社会システムの経験的記述とはいかなることか ─ 意味秩序としての相互行為を例に」(『ソシオロゴス』第31号、2007年:小宮友根との共著)、共著『ワードマップ エスノメソドロジー』(新曜社、2007年)、編著『概念分析の社会学』(ナカニシヤ出版、2009年)。

リサーチ05 / 髙橋耕平


髙橋耕平の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「still moving」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。イベントに「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/

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リサーチ05 / 髙橋耕平
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日時:2015年7月5日(日)14:00〜17:00 ※開場は13:30
場所:お茶の水女子大学 本館第3講義室[地図
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

リサーチ05 / 髙橋耕平


髙橋耕平の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「still moving」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。イベントに「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/

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リサーチ05 / 髙橋耕平
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日時:2015年7月5日(日)14:00〜17:00 ※開場は13:30
場所:お茶の水女子大学 本館第3講義室[地図
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

リサーチ04 / 田中良佑


田中良佑の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka

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リサーチ04 / 田中良佑
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日時:2015年6月14日(日)14:00〜17:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(詳細はメールでお伝えします)
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

リサーチ03 / 飯山由貴


飯山由貴の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

飯山由貴|Yuki Iiyama
1988年神奈川県生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科油画科修了。主な展覧会に「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」(waitingroom, 東京, 2014)、「湯気 けむり 恩賜」(実家 JIKKA, 東京, 2013)など。ネットで購入したスクラップブックなど、どこかの誰かが作った個人的な記録を起点に制作をしている。ここ一年は、家族の1人が持つ幻覚や幻聴を再現する試みや、精神病院での医療記録や、ケアについてリサーチをしている。
http://yukiiiyama.flavors.me/

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リサーチ03 / 飯山由貴
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日時:2015年6月13日(土)14:00〜17:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(詳細はメールでお伝えします)
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

リサーチ02 / 村田紗樹


村田紗樹の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

村田紗樹|Saki Murata
1989年神奈川県生まれ。2013年東京造形大学絵画専攻領域卒業。主な展覧会やイベントに「二階からツバキ」(Antenna Media, 京都, 2015)、「It is no use crying over split milk.」(nam gallery, 東京, 2014)、「I / / / / my ( ) 遠いところにむすんでみる、近いところをほどいてみる」(東麻布Vague - ambiguous gallery, 東京, 2013)、「耳打ちの焦点」(blanClass, 神奈川, 2013)など。様々な場で立ち現れる境界に躙り寄りながら、インスタレーション・音声・身体・映像などを用いて制作を行う。ある制度化された環境で生じる圧力に、こっそりと抵抗するパフォーマンス作品《whisper - amplifier》も各地で展開中。

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リサーチ02 / 村田紗樹
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日時:2015年6月7日(日)14:00~17:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(詳細はメールでお伝えします)
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

リサーチ01 / 荒木悠


荒木悠の作品や活動、関心などを伺い、参加者と一緒に話し合います。

荒木悠|Yu Araki
1985年山形県生まれ。2007年ワシントン大学美術学部彫刻専攻卒業。2010年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。2013年スペイン・ボティン財団主催タシタ・ディーン ワークショップ招聘作家。主な展覧会に「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」(the three konohana, 大阪, 2015)、「藪の中」(ギャルリ・オーブ, 京都, 2015)、「WRONG TRANSLATION」(The Container, 東京, 2014)、「MOTHERLANDS」(実家JIKKA, 東京, 2014)など。
http://www.yuaraki.com/

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リサーチ01 / 荒木悠
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日時:2015年6月6日(土)14:00~17:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(詳細はメールでお伝えします)
定員:30名(予約制) 参加費:無料

<予約方法>
以下のフォームからお願いします。
https://goo.gl/MiMfTy

第一回フォーラム 「公共性(Public Sphere):「社会的なもの」と公共性の微妙な関係」

現在、日本各地で、というか世界各地で「アートの公共性」が問われています。その言葉は「アートの社会性」「アートの社会的な説明責任」と言い換え可能なのかもしれませんし、実践の側から見れば「ソーシャルエンゲージドである」ということを表現した言葉なのかもしれません。多くの真摯な「ソーシャル」な試みが目指されていることは、アートの自律性を信憑しにくくなった現代において、アートワールドの内部のみならず、外部の住民にとっても歓迎すべき流れであると思われます。

しかし、「アートの公共性」「アートと社会」といわれるときの、「公共性」「社会」とはいったい何なのでしょうか。あるひとは、日本固有の公共性の用法(公共の福祉)を踏襲して「社会的・経済的貢献」を、ある人はハンナ・アーレントの「社会的なもの/政治的なもの」の対照項を踏まえて「公共性」を、またある人はユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的合理性が作動する「公共性」を意味しているのかもしれません。他方で、「公共性」という言葉の行儀よさに欺瞞を読み取り、アゴニスティック(敵対的)な政治的場と対照される概念として、あるいは芸術が絡め取られてはならない「罠」として捉えているケースも散見されます。かつてフェミニズムや社会学で「公的領域/私的領域」という対概念が論争化されたときにもみられたことですが、「公的であること(to be public)」が何であり、その対義語はなんであるのか、私たちはしばしば明確な形で捉え返すことなく、いたずらに議論の混乱を招来しているようにも思えます。

あるときはお役所的な公共性を批判する理想主義的な討議空間として(対義語はリアルな政治空間?)、あるときは「親密性」や「私的領域(消費空間)」の対義語として分析的に用いられる。あるいは、生命の維持に汲々とし政治的活動を後景化させていく「社会的な領域」、女性を「私的空間」に閉じ込める男性中心主義的なマチズモの共同性として批判されたりする。さらには、公共性も一枚岩ではなく、様々な「対抗的公共性」がある、という議論もあります。

こうした語用それぞれには一定の意義があるわけですが、「アートの公共性」というとき、どの意味において用いているかによって含意が異なってしまい、議論が錯綜している場合が少なくないように思われます。これはまた「社会的 social」という概念についてもいえることで、それはしばしば公共性と等値されたり、逆に対義的な概念として用いられたりする。「アートの公共性」や「ソーシャル」なあり方を議論するとき、わたしたちはまず、どのような意味で、いかなる歴史性を帯びた概念としてその語を用いているか、をいったん立ち止まってみる必要があるのではないでしょうか。

第一回のフォーラムでは、「公共性」「社会的なもの」についての社会哲学的な考察をされている経済学者の稲葉振一郎氏、アートにおける「新しい公共」の創造を目指す芸術公社の相馬千秋氏にご登壇いただき、「公共性」「社会的」の意味を、「五輪バブル」を迎えるであろうアートワールドの「情況」にそくして、徹底的に討究していきたいと思います。

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第一回フォーラム
公共性(Public Sphere):「社会的なもの」と公共性の微妙な関係
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日時:2015年6月21日(日)13:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内

※会場のキャパシティが小さく、初回については招待状をお送りした方およびその方にご紹介いただいた方のみの受付となっております。二回目以降については、適宜受付方法等についてあらためてサイトにてご報告いたします。

【 タイムテーブル 】
13:00〜13:20|神野真吾(芸術学・千葉大学) 「「社会の芸術フォーラム」設立趣旨」
13:20〜14:00|北田暁大(社会学・東京大学) 「何の「公共性」か? −テーマ趣旨説明」
14:00〜14:40|稲葉振一郎(経済学・明治学院大学)「公共性と社会的なもの」
(休憩)
15:00〜15:40|相馬千秋(ディレクター・芸術公社)「アートにとって「新しい公共」とは何か」
16:00〜16:20|コメント 高橋かおり(文化社会学・早稲田大学)
16:20〜17:40|討論

【 推薦図書 】