第四回フォーラム「アートをめぐる包摂と排除」

「美術館は敷居が高い。」これは現在でも聞かれる言葉でしょうか。来る者を拒むような高踏的な存在として美術館が認識されてきたことは否定しがたい事実です。また、こんな言葉も聞いたことがあります。「分かる奴だけに見せてやってもいい。昔はそんな意識だったよね。」。こう語ったのは、国立のミュージアムの研究員から大学の教授へと転身し、定年退職した後に公立美術館の館長も務めた人物の口から出た言葉です。とても人望があり、問題発言などあまり聞いたことのないその方が言うように、そんな意識が常識であったというのなら、美術館の敷居は、美術館の側で意図的に高くしてきたものであったということになります。つまり美術館は多くの人に開かれた場でありながらも、そこへアクセスするには、作法として一定の専門的知識を身につけていなければならず、その条件を満たしていない奴には参加資格はないのだということです。こうした排他性を正当化できるのは、アートには絶対的に価値があり、その素養を身につけていないものは野蛮だ、という意識に他なりません。

排他性、排除の原理は、何も美術館を運営する専門家の側ばかりが持っているわけではありません。専門家の側につくことで、自分の存在を「選ばれた側」「分かっている側」に置きたい多くの美術鑑賞の愛好家たちが存在することも事実です。高級な文化に位置づけられる美術に自分が所属すると自認し、他にその属性を顕示することで自他の差異を強調し、「教養ある私」の他への優越性を確認する、こうした態度は、一般鑑賞者のみならず、美術館やアート・フェスティバルのボランティアなどにおいて今でも見られるものかもしれません。

こうした排除を基本的原理とする傾向は、建築のあり方にさえ垣間見えます。70年代の美術館建設ブームまでの美術館建築は、ぶつかれば大けがをしそうな硬い印象を与えるものが多く、外から内部をうかがうことの出来ないまるで入ることを拒むかのような構造のものばかりでした。しかし21世紀に入って以降は、たとえば金沢21世紀美術館のSANAAによる建築では、外からは内部の様子が丸見えで、館内には無料の観覧エリアもあり、外と内との境界線がきわめて曖昧な建築になっています。その後に続くものも概ねそうした開放性や境界の曖昧さを意図的に有していると言って良いでしょう。

こうした建物の構造や意匠同様、昨今のアートの現場は、おしなべて敷居を下げることに躍起になってきたように思います。美術館では教育普及事業が注目されるようになり、教育担当の専門職が公募されるようになり、ミュージアム・エデュケーションを専門とする研究者も見られるようになりました。さらには、地域で展開されるアート・フェスティバルや参加型のアート・プロジェクトなどが、全国各地で開催されるようになり、多くの一般市民が鑑賞者として、ボランティアとして、あるいは作品制作のプロセスへの参加者として、アートの世界に“包摂”されているように見えます。

視点を変えれば包摂と排除の力学は、展覧会の鑑賞者、アートイベントの参加者ばかりに向けられているわけでもありません。現実の社会の中では、様々な立場、セクターから、何が作品であり、何が作品でないかの判断がなされるケースもあります。展示することの拒否や検閲という形で包摂と排除の力学が政治的かつ美学的な関心のもと行使され、度々「表現の自由」をめぐる問題として表出しますが、これは、美術の専門家ばかりが行使するわけでもありません。見る主体としての私たちは、それぞれ何を見たいのか、見るべきなのか。それとも見たいものしか見ようとしないのか…。昨今のヘイト・スピーチをはじめとする不寛容な社会的傾向、そして自主的に“何かに配慮し”自己規制する空気とも底でつながっている問題でもあると考えます。



包摂と排除。何に誰を包摂し誰の何を排除するのか、語る立ち位置によってそれは変わってくるはずです。マジョリティによる「同化」として包摂が意味されるのならば、それぞれの多様なあり方は許されなくなります。これは当フォーラムの多文化主義の回での議論にもつながるものですが、そこで同化を拒みつつ、何かに関わること、そしてそれに積極的な意味を与えることは可能なのでしょうか。さらに言えば我々は何に包摂されるべきなのでしょうか。

アートの世界、アーサー・ダントの言うアートワールドでは、アートの論理が絶対であり、アートそのものへの疑いは許されません。アートの理論は、常に更新されつつアートワールドを支えてきました。その理論を踏まえない石頭はその世界の住人になることは出来ません。もしこうしたあり方が、アートの活動が社会の様々な領域にあふれ出ている今でも自明視されているなら、われわれはアートに新しく関わりを持とうとする人々をアートワールドに包摂することを、マジョリティとして彼らを同化することを、目指しているということになるでしょう。それは、同化を拒む者を排除するという反応を当然含むことになります。「パブリック」である、ということを前提にするなら、もちろん、そんなことは正当化しえないはずです。また、アート・フェスティバルなどを町おこしや経済振興に用いようとしている人たちは、多様な主体としてのアートに連なる人たちを、経済や共同体の規範など自分たちの行動原理に従わせ、同化しようとしているのでしょうか。もしそうでないなら、どのような対話が行われ、どのような変化が双方にもたらされることを予感し、期待しているのでしょうか。それともそんな期待や覚悟などはないのでしょうか。私たちが包摂されるべきなのは何に向けてなのでしょう。こうした視点をもたないまま、アートが開かれていき、境界線が曖昧になっていく現状がもたらしているのは、アートという行為やそれに伴う価値を宙づりにする状況なのではないかと危惧します。



今回のフォーラム「アートを通した包摂と排除」では、こうした問題について議論したいと考えています。これまでのフォーラム同様、まず問題を考える上での基本的視座について、アート外の研究者からご報告いただき、アートの側からの事例報告および問題提起を行い、議論を深められたらと考えております。社会における包摂と排除についての基本的概念や、関係性についてお話しいただくのは、沖縄出身者のアイデンティティ形成についての著作『同化と他者化』を著した社会学者の岸政彦さん。地域におけるアートの活動展開がはらむアーティストの立場の二重性について、市原の月出工舎を運営しつつ妻有の大地の芸術祭などにも出品しているアーティストの岩間賢さんからお話しいただきます。この二重性は「搾取」へとつながる危険性もはらみます。そして、「他人の時間」展や「ここはだれの場所?」展などの展覧会を通して、アートワールドの論理とは異なる社会とアートの接続点を模索している東京都現代美術館キュレーターのチェ・キョンファさんにお話しいただくのは、他者への寛容性を欠く「排除」の傾向を強める今の社会状況の中で美術館ができることとは、そして美術館は誰を包摂し誰を排除してきたのかについて論じていただく予定です。発表者の報告へのコメントをアーティストの白川昌生さんにいただいた後、登壇者、コメンテーターに加え、フォーラム共同代表の北田暁大、神野真吾、運営委員の竹田恵子による議論をしたいと考えます。師走のお忙しい時期ではありますが、ぜひご参集ください。

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第四回フォーラム
アートをめぐる包摂と排除
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日時:2015年12月12日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/5zOyXnhDqM
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者・コメンテーター 】
岸政彦(社会学・龍谷大学)
岩間賢(アーティスト・月出工舎)
チェ・キョンファ(キュレーター・東京都現代美術館)
白川昌生(アーティスト)

【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)