吉澤弥生氏(共立女子大学)をお迎えし、社会の芸術フォーラム共同代表の北田暁大氏(東京大学)と第三回フォーラム「搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者」のフォローアップを実施いたします。
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レクチャー #4「搾取」
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日時:2015年11月9日(月)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:吉澤弥生(共立女子大学)、北田暁大(東京大学、社会の芸術フォーラム共同代表)
定員:50人
<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします
吉澤弥生|Yayoi Yoshizawa
共立女子大学文芸学部准教授、NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト[recip]理事、NPO法人アートNPOリンク理事。大阪大学大学院修了、博士(人間科学)。専門は芸術社会学。労働、政策、運動、地域の視座から現代芸術を研究。近著に論文「大阪の現代芸術事業の周辺で起きたこと」(『上方芸能』191号、2014)、単著『芸術は社会を変えるか? —文化生産の社会学からの接近』(青弓社、2011)、調査報告書『続々・若い芸術家たちの労働』(2014)など。またrecipでは東京都との協働で『「莇平の事例研究」活動記録と検証報告』(2014)、アートNPOリンクでは文化庁委託事業として『アートNPOデータバンク2014-15』(2015)などを制作。
第三回フォーラム「搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者」
言うまでもなくアートワールドも貨幣経済と無縁ではない世界です。美術館やギャラリー、アーティスト、キュレーター、コレクター、企画会社、新聞社、公的機関…多数のアクターが、金銭を媒介としたコミュニケーションを営み、そのなかで労働と賃金の配分がなされています。アートワールドの「下部構造」に焦点を当てる論考は数多くありますが、それらの知見の蓄積がはたして現代日本のアートワールドの現状に何らかの貢献をしているかと問われれば、口をつぐむしかありません。
芸大・美大といった教育システムによって次々と人材は生み出され、アートギャラリーなどのショーを通じ、有名性や「業界的評価」を元手に資金を回していく市場があります。また一方では、旧来のギャラリー、ミュージアムを中心としたアートワールドの現場以外にも、地域におけるアート・プロジェクトやフェスティバルが数多く行われるようになるにつれて、そうしたキャリアパスと無関係にインディペンデントにアートの実践を繰り広げていく人びとも増えてきています。純粋に作品のやりとりによって経済がまわるだけでなく、公的機関からの助成をはじめとする資金もまた、この業界をめぐるお金のうち大きな部分を占めています。アートワールドに生きる者がどんな経歴を持つにせよ、経済的な市場の論理と公的資金との組み合わせのなかで、アートという実践=労働や、労働の成果物=作品への対価を、貨幣価値に換算し、生活者としてのアーティスト、アート関係者の「生」は維持されているはずです。東日本大震災以降は、復興や地域振興の名のもとに公的資金が多く投下されていますが、もちろんアートワールドにもその影響は及び、浸潤しつつあります。そうした傾向は2020年の東京五輪まで続くだろうことは容易に想像できます。震災以降緩やかに流通しはじめたそうした資金はオリンピックをピークとしたある種の「バブル」を芸術界にもたらすでしょう。しかし、それははたして生活者としてのアーティストのあり方をサステナブルなものとすることにつながっていくのでしょうか。
本フォーラムで考えてみたいのは、作品や労働の価値が貨幣によって表現されるときに起こっている事柄、つまり「剰余価値」の搾取についてです。たとえば美術館での企画展示において、作家に支払うべき対価はどのように決まっているのでしょうか?「美術館で」の実績は、美術制度における評価の機能を美術館が専ら担うようになっている状況では、とてつもなく大きな意味を持つでしょう。その場合、自分の労働の対価と制作に充てる制作費との境界は、アビングが言うように、対価を削ってでも制作費に投じるという傾向を持っているはずです。同時に、アーティストを選ぶ側はそれを見越して、対価を少なく見積もることも出来るかもしれません。また近年盛んになっている様々なアート・プロジェクト、フェスティバルでは、多くの若手アーティストたちが自らの表現の追求のために献身的に取り組むばかりでなく、そしてそうした作品の実現や鑑賞機会の提供のために、多くのボランティアが集まって、様々な実践が展開されています。
こうしたこと全てを否定的に捉えるべきものではありません。しかし、問題なのは、そうした場で行われている等価交換(作品の価値・労働の価値と貨幣価値との交換)が、どのようなメカニズムにおいてなされているか、ということです。アーティスト一人一人は、展示の機会を求めて、あるいは社会的貢献を求めて、自らの労働を投下した作品を提供します。そしてキュレーターやディレクターはそれに対価を支払います。これが基本的な関係になりますが、たとえアーティストが手弁当で赤字を出したとしても「社会貢献」「展示機会の獲得」といった価値が、貨幣的価値のマイナスを補うと当人が自覚していれば、それは間違いなく自由な労働と賃金の等価交換だと言うことができます。ボランティアについても同様のことが言えるでしょう。
しかし等価交換であることは搾取の不在を意味するものではありません。マルクスの『資本論』の本義に立ち戻って言えば、搾取とは、システムとしての等価交換から剰余価値が生み出されるカラクリの胆にほかなりません。マルクスの場合は投下された労働価値が等価交換を経て剰余価値を生み出すプロセスが問題となっているわけですが、アートの場合、この「価値」そのものがきわめて多義的であり、それゆえに搾取の構造もまた多様なものとなっている点に特徴があります。「これは社会的な価値を持つから」「貨幣に還元されない価値が芸術にはあるから」「アートは単なる労働ではないから」…といった常套句が、アートという実践の「価値」の測定を難しくし、したがって「搾取」のあり方を不分明なものとしているのではないでしょうか。
そもそもマルクス主義の文脈においても、等価労働の「価値」がいかにして「価格」に転化するのか、ということをめぐり多くの論争がなされてきました(転形価値論争)。目に見えない理念的ともいえる価値が、いかにして価格に転化するのか、このメカニズムが不明であれば、そもそも搾取(資本家による剰余価値の搾取)という構図が成り立つのかどうかが怪しくなってきます。工業単純労働を典型とした労働価値/価格ですらそうした理論的困難を伴っているわけで、それが「作品の価値」「作者の才能」「労働ではなく活動」といったきわめて近代的な価値概念を前提としたアートワールドにおいてより錯綜したものとなることは明らかです。アートという実践ははたして「労働」なのか、価値を生むのは「製作者の才なのか作品そのものなのか」、価格に還元されない美的価値の交換とは何か、といった難題がわたしたちの前に横たわっています。
今回のフォーラムでは、こうしたアート概念そのものの問い直しをも迫る「搾取」をめぐり、「ボランティア」の贈与的性格を実証的・理論的な側面で明らかにした仁平典宏氏(教育社会学)、制作において、取材対象との関係、制作における様々な共同性においてこの問題を考え続け、またアーティスツ・ギルドのメンバーでもある―藤井光氏(アーティスト)、ディレクション、キュレーションの観点からアートワールドの構成に携わってきた蔵屋美香氏(キュレーター)とともに、「社会科学」「アート実践」「ディレクション」の三側面から、考察を深めていきたいと思います。
「自分は搾取などされていない!」という否認は、はたして搾取の不在を証言する言語行為といえるでしょうか。実はそれ自体が搾取の存在を遂行的に指し示してしまっている、無自覚的に容認してしまっているとはいえないでしょうか。「生活者としてのアーティスト」に関心を持つ/持たざるを得ないみなさんのご参加を期待しております。
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第三回フォーラム
搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者
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日時:2015年10月17日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/Y30ILr365z
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
藤井光(アーティスト)
仁平典宏(教育社会学・東京大学)
蔵屋美香(キュレーター・東京国立近代美術館)
【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)
芸大・美大といった教育システムによって次々と人材は生み出され、アートギャラリーなどのショーを通じ、有名性や「業界的評価」を元手に資金を回していく市場があります。また一方では、旧来のギャラリー、ミュージアムを中心としたアートワールドの現場以外にも、地域におけるアート・プロジェクトやフェスティバルが数多く行われるようになるにつれて、そうしたキャリアパスと無関係にインディペンデントにアートの実践を繰り広げていく人びとも増えてきています。純粋に作品のやりとりによって経済がまわるだけでなく、公的機関からの助成をはじめとする資金もまた、この業界をめぐるお金のうち大きな部分を占めています。アートワールドに生きる者がどんな経歴を持つにせよ、経済的な市場の論理と公的資金との組み合わせのなかで、アートという実践=労働や、労働の成果物=作品への対価を、貨幣価値に換算し、生活者としてのアーティスト、アート関係者の「生」は維持されているはずです。東日本大震災以降は、復興や地域振興の名のもとに公的資金が多く投下されていますが、もちろんアートワールドにもその影響は及び、浸潤しつつあります。そうした傾向は2020年の東京五輪まで続くだろうことは容易に想像できます。震災以降緩やかに流通しはじめたそうした資金はオリンピックをピークとしたある種の「バブル」を芸術界にもたらすでしょう。しかし、それははたして生活者としてのアーティストのあり方をサステナブルなものとすることにつながっていくのでしょうか。
本フォーラムで考えてみたいのは、作品や労働の価値が貨幣によって表現されるときに起こっている事柄、つまり「剰余価値」の搾取についてです。たとえば美術館での企画展示において、作家に支払うべき対価はどのように決まっているのでしょうか?「美術館で」の実績は、美術制度における評価の機能を美術館が専ら担うようになっている状況では、とてつもなく大きな意味を持つでしょう。その場合、自分の労働の対価と制作に充てる制作費との境界は、アビングが言うように、対価を削ってでも制作費に投じるという傾向を持っているはずです。同時に、アーティストを選ぶ側はそれを見越して、対価を少なく見積もることも出来るかもしれません。また近年盛んになっている様々なアート・プロジェクト、フェスティバルでは、多くの若手アーティストたちが自らの表現の追求のために献身的に取り組むばかりでなく、そしてそうした作品の実現や鑑賞機会の提供のために、多くのボランティアが集まって、様々な実践が展開されています。
こうしたこと全てを否定的に捉えるべきものではありません。しかし、問題なのは、そうした場で行われている等価交換(作品の価値・労働の価値と貨幣価値との交換)が、どのようなメカニズムにおいてなされているか、ということです。アーティスト一人一人は、展示の機会を求めて、あるいは社会的貢献を求めて、自らの労働を投下した作品を提供します。そしてキュレーターやディレクターはそれに対価を支払います。これが基本的な関係になりますが、たとえアーティストが手弁当で赤字を出したとしても「社会貢献」「展示機会の獲得」といった価値が、貨幣的価値のマイナスを補うと当人が自覚していれば、それは間違いなく自由な労働と賃金の等価交換だと言うことができます。ボランティアについても同様のことが言えるでしょう。
しかし等価交換であることは搾取の不在を意味するものではありません。マルクスの『資本論』の本義に立ち戻って言えば、搾取とは、システムとしての等価交換から剰余価値が生み出されるカラクリの胆にほかなりません。マルクスの場合は投下された労働価値が等価交換を経て剰余価値を生み出すプロセスが問題となっているわけですが、アートの場合、この「価値」そのものがきわめて多義的であり、それゆえに搾取の構造もまた多様なものとなっている点に特徴があります。「これは社会的な価値を持つから」「貨幣に還元されない価値が芸術にはあるから」「アートは単なる労働ではないから」…といった常套句が、アートという実践の「価値」の測定を難しくし、したがって「搾取」のあり方を不分明なものとしているのではないでしょうか。
そもそもマルクス主義の文脈においても、等価労働の「価値」がいかにして「価格」に転化するのか、ということをめぐり多くの論争がなされてきました(転形価値論争)。目に見えない理念的ともいえる価値が、いかにして価格に転化するのか、このメカニズムが不明であれば、そもそも搾取(資本家による剰余価値の搾取)という構図が成り立つのかどうかが怪しくなってきます。工業単純労働を典型とした労働価値/価格ですらそうした理論的困難を伴っているわけで、それが「作品の価値」「作者の才能」「労働ではなく活動」といったきわめて近代的な価値概念を前提としたアートワールドにおいてより錯綜したものとなることは明らかです。アートという実践ははたして「労働」なのか、価値を生むのは「製作者の才なのか作品そのものなのか」、価格に還元されない美的価値の交換とは何か、といった難題がわたしたちの前に横たわっています。
今回のフォーラムでは、こうしたアート概念そのものの問い直しをも迫る「搾取」をめぐり、「ボランティア」の贈与的性格を実証的・理論的な側面で明らかにした仁平典宏氏(教育社会学)、制作において、取材対象との関係、制作における様々な共同性においてこの問題を考え続け、またアーティスツ・ギルドのメンバーでもある―藤井光氏(アーティスト)、ディレクション、キュレーションの観点からアートワールドの構成に携わってきた蔵屋美香氏(キュレーター)とともに、「社会科学」「アート実践」「ディレクション」の三側面から、考察を深めていきたいと思います。
「自分は搾取などされていない!」という否認は、はたして搾取の不在を証言する言語行為といえるでしょうか。実はそれ自体が搾取の存在を遂行的に指し示してしまっている、無自覚的に容認してしまっているとはいえないでしょうか。「生活者としてのアーティスト」に関心を持つ/持たざるを得ないみなさんのご参加を期待しております。
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第三回フォーラム
搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者
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日時:2015年10月17日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/Y30ILr365z
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
藤井光(アーティスト)
仁平典宏(教育社会学・東京大学)
蔵屋美香(キュレーター・東京国立近代美術館)
【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)
リサーチ06 / 荒木悠×飯山由貴×髙橋耕平×田中良佑×村田紗樹
社会の芸術フォーラムでは12月に展覧会を開催する予定です。今回は、参加アーティストの荒木悠、飯山由貴、髙橋耕平、田中良佑、村田紗樹にそれぞれキーワードを挙げていただき、それをもとにゆっくり話し合う予定です。
<キーワード>
・ラベリング
・今という物差し
・つくりかた
・見えない人、生き物、もの、ものごと
・制作をつづけること、中断すること、終らせること
・なにもしたくないとき
・歴史についての個人的な引き受け方(国家の歴史、ローカル史、個人史)
・関係を作ってしまうこと/無関係でいること(他者への介入の可能性とその責任)
・他人の金で制作すること(公的助成金、スポンサーからの支援をうけて)
・平和
・当事者/非当事者
・それぞれの人生
・仕事と私事
・力まないでいること
・他人の気持ちを考えることについて考える
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リサーチ06 / 荒木悠×飯山由貴×髙橋耕平×田中良佑×村田紗樹
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日時:2015年10月5日(月)15:00〜21:00 ※受付開始は14:30
会場:art & river bank(東京都大田区田園調布1-55-20 #206)
定員:30人(予約不要/先着順) 参加費:無料(1ドリンクオーダー)
※途中参加/退場OK
※休憩時間の予定:16:45〜17:15、18:45〜19:15
<アクセス>
東急東横線「多摩川」駅西口より徒歩4分
http://www.art-and-river-bank.net/_site_jpn/information.html
荒木悠|Yu Araki
1985年山形県生まれ。2007年ワシントン大学美術学部彫刻専攻卒業。2010年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。近年の主な仕事に「オマー・ファスト展」映像字幕翻訳(TARO NASU, 東京, 2015)、悪魔のしるし演劇公演「わが父、ジャコメッティ」映像製作(KAAT神奈川芸術劇場、京都芸術センター、スイス三都市巡回, 2014)、core of bells「第四回月例公演:デトロイトテクノ人形」ナレーション出演(SuperDeluxe, 東京, 2014)など。昨年は都内2カ所で個展「WRONG TRANSLATION」(The Container)と「MOTHERLANDS」(実家 JIKKA)をほぼ同時開催。通訳・翻訳といった言語的活動の一方で、物事の伝播に伴う誤訳・誤解釈に着目した制作を展開している。ATC所属。
http://www.yuaraki.com/
飯山由貴|Yuki Iiyama
1988年神奈川県生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科油画科修了。主な展覧会に「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」(waitingroom, 東京, 2014)、「湯気 けむり 恩賜」(実家 JIKKA, 東京, 2013)など。ネットで購入したスクラップブックなど、どこかの誰かが作った個人的な記録を起点に制作をしている。ここ一年は、家族の1人が持つ幻覚や幻聴を再現する試みや、精神病院での医療記録や、ケアについてリサーチをしている。
http://yukiiiyama.flavors.me/
髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「still moving」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。イベントに「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/
田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka
村田紗樹|Saki Murata
1989年神奈川県生まれ。2013年東京造形大学絵画専攻領域卒業。主な展覧会やイベントに「二階からツバキ」(Antenna Media, 京都, 2015)、「It is no use crying over split milk.」(nam gallery, 東京, 2014)、「I / / / / my ( ) 遠いところにむすんでみる、近いところをほどいてみる」(東麻布Vague - ambiguous gallery, 東京, 2013)、「耳打ちの焦点」(blanClass, 神奈川, 2013)など。様々な場で立ち現れる境界に躙り寄りながら、インスタレーション・音声・身体・映像などを用いて制作を行う。ある制度化された環境で生じる圧力に、こっそりと抵抗するパフォーマンス作品《whisper - amplifier》を各地で展開。また、劇作家・岸井大輔による〈始末をかく〉プロジェクトの新作「茶屋建築に求めてゆかなければならぬ」に参加しており、10/12まで公演中。
<キーワード>
・ラベリング
・今という物差し
・つくりかた
・見えない人、生き物、もの、ものごと
・制作をつづけること、中断すること、終らせること
・なにもしたくないとき
・歴史についての個人的な引き受け方(国家の歴史、ローカル史、個人史)
・関係を作ってしまうこと/無関係でいること(他者への介入の可能性とその責任)
・他人の金で制作すること(公的助成金、スポンサーからの支援をうけて)
・平和
・当事者/非当事者
・それぞれの人生
・仕事と私事
・力まないでいること
・他人の気持ちを考えることについて考える
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リサーチ06 / 荒木悠×飯山由貴×髙橋耕平×田中良佑×村田紗樹
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日時:2015年10月5日(月)15:00〜21:00 ※受付開始は14:30
会場:art & river bank(東京都大田区田園調布1-55-20 #206)
定員:30人(予約不要/先着順) 参加費:無料(1ドリンクオーダー)
※途中参加/退場OK
※休憩時間の予定:16:45〜17:15、18:45〜19:15
<アクセス>
東急東横線「多摩川」駅西口より徒歩4分
http://www.art-and-river-bank.net/_site_jpn/information.html
荒木悠|Yu Araki
1985年山形県生まれ。2007年ワシントン大学美術学部彫刻専攻卒業。2010年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程修了。近年の主な仕事に「オマー・ファスト展」映像字幕翻訳(TARO NASU, 東京, 2015)、悪魔のしるし演劇公演「わが父、ジャコメッティ」映像製作(KAAT神奈川芸術劇場、京都芸術センター、スイス三都市巡回, 2014)、core of bells「第四回月例公演:デトロイトテクノ人形」ナレーション出演(SuperDeluxe, 東京, 2014)など。昨年は都内2カ所で個展「WRONG TRANSLATION」(The Container)と「MOTHERLANDS」(実家 JIKKA)をほぼ同時開催。通訳・翻訳といった言語的活動の一方で、物事の伝播に伴う誤訳・誤解釈に着目した制作を展開している。ATC所属。
http://www.yuaraki.com/
飯山由貴|Yuki Iiyama
1988年神奈川県生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科油画科修了。主な展覧会に「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」(waitingroom, 東京, 2014)、「湯気 けむり 恩賜」(実家 JIKKA, 東京, 2013)など。ネットで購入したスクラップブックなど、どこかの誰かが作った個人的な記録を起点に制作をしている。ここ一年は、家族の1人が持つ幻覚や幻聴を再現する試みや、精神病院での医療記録や、ケアについてリサーチをしている。
http://yukiiiyama.flavors.me/
髙橋耕平|Kohei Takahashi
1977年京都府生まれ。2002年京都精華大学大学院芸術研究科修了。主な展覧会に「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸, 愛知, 2015)、「still moving」(元崇仁小学校, 京都, 2015)、「史と詩と私と」(京都芸術センター, 京都, 2014)、「HARADA-san」(Gallery PARC, 京都, 2013)など。イベントに「発話する主体と転移をめぐって」(blanClass, 神奈川, 2014)などがある。近年は物事の物質的・精神的継承と記憶・記録の重ね書きをめぐる行為、個人史と歴史の交差、個人と集団の力学に着目した活動を行う。
http://www.takahashi-kohei.jp/
田中良佑|Ryosuke Tanaka
1990年香川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科在籍。主な展覧会に「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大館商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点, 東京, 2014)など。社会の中の“それぞれの私”という考え方で、人を受動的にまとめてしまう社会や歴史のシステムについて、映像、パフォーマンス、プロジェクトなど様々な方法で取り組む。“それぞれの私”が本来抱える言葉にならない思いや可能性を形にして、能動的に生きる方法を探っている。
http://lalalalarush.wix.com/ryosuke-tanaka
村田紗樹|Saki Murata
1989年神奈川県生まれ。2013年東京造形大学絵画専攻領域卒業。主な展覧会やイベントに「二階からツバキ」(Antenna Media, 京都, 2015)、「It is no use crying over split milk.」(nam gallery, 東京, 2014)、「I / / / / my ( ) 遠いところにむすんでみる、近いところをほどいてみる」(東麻布Vague - ambiguous gallery, 東京, 2013)、「耳打ちの焦点」(blanClass, 神奈川, 2013)など。様々な場で立ち現れる境界に躙り寄りながら、インスタレーション・音声・身体・映像などを用いて制作を行う。ある制度化された環境で生じる圧力に、こっそりと抵抗するパフォーマンス作品《whisper - amplifier》を各地で展開。また、劇作家・岸井大輔による〈始末をかく〉プロジェクトの新作「茶屋建築に求めてゆかなければならぬ」に参加しており、10/12まで公演中。
レクチャー #3「多文化主義」
金明秀氏(関西学院大学)をお迎えし、第二回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」のフォローアップを実施いたします。
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レクチャー #3「多文化主義」
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日時:2015年9月18日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:金明秀(関西学院大学)
定員:50人
<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします
金明秀|Myungsoo Kim
関西学院大学教授。量的データの統計解析を通じて社会階層論と社会意識論に関する諸問題について取り組む。在日コリアンについてのウェブサイト「ハン・ワールド」を主催。著書・論文に『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会、1997年)、「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」
(SYNODOS http://synodos.jp/faq/1965 、2012年)、「特別永住資格は「在日特権」か?」(SYNODOS http://synodos.jp/politics/11245 、2014年)、他多数。
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レクチャー #3「多文化主義」
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日時:2015年9月18日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:金明秀(関西学院大学)
定員:50人
<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします
金明秀|Myungsoo Kim
関西学院大学教授。量的データの統計解析を通じて社会階層論と社会意識論に関する諸問題について取り組む。在日コリアンについてのウェブサイト「ハン・ワールド」を主催。著書・論文に『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会、1997年)、「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」
(SYNODOS http://synodos.jp/faq/1965 、2012年)、「特別永住資格は「在日特権」か?」(SYNODOS http://synodos.jp/politics/11245 、2014年)、他多数。
シンポジウム01|過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」
『宇宙戦艦ヤマト』の放映が1974年、『機動戦士ガンダム』が79年、ガンダムシリーズの躍進とアニメ関連雑誌が隆盛する80年代に産み落とされた『風の谷のナウシカ』『ビューティフルドリーマー』、そこから『攻殻機動隊』(90年劇場公開)『新世紀エヴァンゲリオン』(95-6年)を経て、00年代に至るまで特異な形で発達した日本のアニメーションは、「未来」を描き続けてきました。もちろん未来を描き出すことは、70年代以降のアニメやまんがに特有のことではなく、それ以前のまんがやアニメ、そしてアニメ以外の領域でも「未来」は、その作者が描き出すその時点での未来社会への想像力を指し示すものであり続けてきました。しかし狭義のアニメコンテンツが、私たちの生きる現在が終焉した後の「未来」における日常や社会のあり方を精細にビジュアライズするようになってきたのは、やはり70年代以降に顕著な傾向であると考えられます。現在の終焉後の世界を描いた『AKIRA』、ギブソンの『ニューロマンサー』がともに80年代に生み出されたことも忘れるわけにはいきません。それらは未来を描き出すことによって、その未来において終焉した現在を描き出していたともいえるわけで、同時代的な社会批評でもあったと考えられます。
本シンポジウムでは、こうしたアニメーション、まんがにおける未来、つまり「過去の未来」の系譜をたどりながら、それらの作品・表象が想定していた「現在=未来の過去」への問題意識、批評的まなざしをたどり返し、「クールジャパン」といった標語で奇妙な形で持ち上げられてしまったアニメ・まんが文化の<現在>を考察していきたいと思います。
たしかに00年代以降も「優れた」と形容されるべき作品は多々生み出されてきました。いま米独仏などの海外の販売会、コスプレなどをみるかぎり、もっとも人気を博しているのは、『NARUTO』であり『One Piece』であり(少し前だと『涼宮ハルヒ』)、いずれも現在の終焉後に現れた「未来」というよりは、現在とは異なる可能世界のあり方が描かれているように思います。『ビューティフルドリーマー』はその可能世界が日常から染み出してくる姿を描き出したという意味で、「未来」の時代である80年代において特異な位置にあったわけですが、現在では、「他なる現在」を舞台とすることがひとつのデフォルトになっているようにも思えます。少なくとも、「グローバリゼーション」のなかで広がっている作品にそうした「他なる現在」を扱ったものが多いことは事実といえます。
また、過去にさかのぼっても「ここではないどこか」として「未来」が参照点となっていた作品の多くは「男の子」向けであり、「女の子」向けの場合、それは西欧であったりアメリカであったり、あるいは時間軸を設定しえない別の現在世界でした(萩尾望都、竹宮恵子の「未来」は、男性群向けのそれと同じものといえるでしょうか?)。仮に「他なる現在」という時間意識が男女向けともに前景化しているのだとすれば、そこに何かの徴候を読み取ることができるようにも思えます。
こうした「未来」と<現在>の関係のあり方の変化は何を意味しているのでしょうか。またその変化と現在のアニメ・まんが産業が置かれた状況、海外での展開などはどのようにかかわっているのでしょうか。本シンポジウムでは、日本のアニメ・まんが史を学術的研究の対象とする嚆矢となった大塚英志氏、過去の未来像の系譜から社会意識の変容を読みとく『未来の社会学』の著者である若林幹夫氏、ドイツを拠点とし、アート・ディレクターの立場から『プロト・アニメカット』展などをプロデュースされてきたシュテファン・リーケレス氏、「やおい」をめぐる受容者たちの社会のあり方を鮮明に描き出した東園子氏をお迎えし、まんが・アニメ史、社会学、アートとしてのアニメ・まんが表象、コンテンツ産業論、受容論など様々な観点から「過去の未来」を分析し、未来の過去としての現在のあり方を照射していきたいと思います(司会・北田暁大)。多くの方がたのご参加をお待ちしております。
===
国際シンポジウム01
過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」
===
日時:2015年8月29日(土)11:30〜14:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
大塚英志(民俗学・国際日本文化研究センター)
若林幹夫(社会学・早稲田大学)
シュテファン・リーケレス(メディアアート)
東園子(社会学・大阪大学)
【 司会・進行 】
北田暁大(社会学・東京大学)
本シンポジウムでは、こうしたアニメーション、まんがにおける未来、つまり「過去の未来」の系譜をたどりながら、それらの作品・表象が想定していた「現在=未来の過去」への問題意識、批評的まなざしをたどり返し、「クールジャパン」といった標語で奇妙な形で持ち上げられてしまったアニメ・まんが文化の<現在>を考察していきたいと思います。
たしかに00年代以降も「優れた」と形容されるべき作品は多々生み出されてきました。いま米独仏などの海外の販売会、コスプレなどをみるかぎり、もっとも人気を博しているのは、『NARUTO』であり『One Piece』であり(少し前だと『涼宮ハルヒ』)、いずれも現在の終焉後に現れた「未来」というよりは、現在とは異なる可能世界のあり方が描かれているように思います。『ビューティフルドリーマー』はその可能世界が日常から染み出してくる姿を描き出したという意味で、「未来」の時代である80年代において特異な位置にあったわけですが、現在では、「他なる現在」を舞台とすることがひとつのデフォルトになっているようにも思えます。少なくとも、「グローバリゼーション」のなかで広がっている作品にそうした「他なる現在」を扱ったものが多いことは事実といえます。
また、過去にさかのぼっても「ここではないどこか」として「未来」が参照点となっていた作品の多くは「男の子」向けであり、「女の子」向けの場合、それは西欧であったりアメリカであったり、あるいは時間軸を設定しえない別の現在世界でした(萩尾望都、竹宮恵子の「未来」は、男性群向けのそれと同じものといえるでしょうか?)。仮に「他なる現在」という時間意識が男女向けともに前景化しているのだとすれば、そこに何かの徴候を読み取ることができるようにも思えます。
こうした「未来」と<現在>の関係のあり方の変化は何を意味しているのでしょうか。またその変化と現在のアニメ・まんが産業が置かれた状況、海外での展開などはどのようにかかわっているのでしょうか。本シンポジウムでは、日本のアニメ・まんが史を学術的研究の対象とする嚆矢となった大塚英志氏、過去の未来像の系譜から社会意識の変容を読みとく『未来の社会学』の著者である若林幹夫氏、ドイツを拠点とし、アート・ディレクターの立場から『プロト・アニメカット』展などをプロデュースされてきたシュテファン・リーケレス氏、「やおい」をめぐる受容者たちの社会のあり方を鮮明に描き出した東園子氏をお迎えし、まんが・アニメ史、社会学、アートとしてのアニメ・まんが表象、コンテンツ産業論、受容論など様々な観点から「過去の未来」を分析し、未来の過去としての現在のあり方を照射していきたいと思います(司会・北田暁大)。多くの方がたのご参加をお待ちしております。
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国際シンポジウム01
過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」
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日時:2015年8月29日(土)11:30〜14:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
大塚英志(民俗学・国際日本文化研究センター)
若林幹夫(社会学・早稲田大学)
シュテファン・リーケレス(メディアアート)
東園子(社会学・大阪大学)
【 司会・進行 】
北田暁大(社会学・東京大学)
第二回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」
ここ数年来、日本国内でヘイトスピーチが顕在化し、とうの昔に学術的には埋葬されたはずの「単一民族神話」がマスメディアにおいても垂れ流されています。日本国内の現状では、多文化主義、また多文化主義からの議論の発展も黙殺される危機にあるといってよいでしょう。そもそも日本では、多文化主義という状態は果たしてあったのでしょうか。 自らのアイデンティティを問わずにいることができるひとたちの表現が、私たちの日常を覆い隠しているかのようです。そのようななかで、アーティスト等、文化の担い手はどのような実践を重ねているのでしょうか。
また、日本よりはるかに深度をもって現実の制度を組み立てていると思われるヨーロッパにおいても、同様の問題が噴出しています。政治権力に対する風刺という表現の自由を伝統としてきた「共和国」において民族的・宗教的マイノリティたちは、その共和国の伝統と信仰の間でたえず日常を問い返すことを余儀なくされています。記憶に新しい「シャルリ・エブド事件」はそうした「文化戦争」が顕在化する契機となったといえるでしょう。
一方、現代美術においては、「大地の魔術師展」(1989年)以降、非西洋文化に対する関心が、ポストコロニアルな思想やグローバリゼーションとも関係しながら、欧米以外の美術家に対する注目を促してきましたが、その文化理解には問題も指摘されています。
「第二回社会の芸術フォーラム」は以上のような社会学、憲法学や美術史からの多角的な視点を踏まえた議論を行います。アーティスト、キュレーター、評論家、研究者など、様々な立場で芸術に関わる者は、自らの文化的立ち位置を自認しないことには、世界の中でその表現を問うことが成立しないと思われます。多文化主義について考えることは、日本において芸術に関わろうとする者全てに自分の文化的立ち位置を確認することの契機になると考えます。
===
第二回フォーラム
問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容
===
日時:2015年8月29日(土)14:30〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
志田陽子(憲法学・武蔵野美術大学)
韓東賢(社会学・日本映画大学)
加治屋健司(美術史、表象文化論・京都市立芸術大学)
リュウ・ルーシャン(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)
また、日本よりはるかに深度をもって現実の制度を組み立てていると思われるヨーロッパにおいても、同様の問題が噴出しています。政治権力に対する風刺という表現の自由を伝統としてきた「共和国」において民族的・宗教的マイノリティたちは、その共和国の伝統と信仰の間でたえず日常を問い返すことを余儀なくされています。記憶に新しい「シャルリ・エブド事件」はそうした「文化戦争」が顕在化する契機となったといえるでしょう。
一方、現代美術においては、「大地の魔術師展」(1989年)以降、非西洋文化に対する関心が、ポストコロニアルな思想やグローバリゼーションとも関係しながら、欧米以外の美術家に対する注目を促してきましたが、その文化理解には問題も指摘されています。
「第二回社会の芸術フォーラム」は以上のような社会学、憲法学や美術史からの多角的な視点を踏まえた議論を行います。アーティスト、キュレーター、評論家、研究者など、様々な立場で芸術に関わる者は、自らの文化的立ち位置を自認しないことには、世界の中でその表現を問うことが成立しないと思われます。多文化主義について考えることは、日本において芸術に関わろうとする者全てに自分の文化的立ち位置を確認することの契機になると考えます。
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第二回フォーラム
問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容
===
日時:2015年8月29日(土)14:30〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
志田陽子(憲法学・武蔵野美術大学)
韓東賢(社会学・日本映画大学)
加治屋健司(美術史、表象文化論・京都市立芸術大学)
リュウ・ルーシャン(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)
東京都現代美術館の「撤去要請」問題について
「社会の芸術フォーラム」は、東京都現代美術館の「おとなもこどもも考える ここはだれのばしょ?」展における、会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)による作品《檄》をめぐる一連の出来事について高い関心を寄せております。
美術館の公式見解を現時点で明確には得られていないので、本フォーラムからの問題提起等については今後の経過をみながら、適宜速やかに行っていきたいと思います。いずれにせよ、美術館という公共的・社会的な教育・展示施設のあり方について、広く社会的・芸術学的・公共政策的・法的な議論が深められる必要があると考えます。
そのための開かれた議論の場を、「社会の芸術フォーラム」でも用意したいと考えています。
=====
社会の芸術フォーラム
=====
北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)
粟生田弓(写真研究)
小倉 涌(アーティスト)
藤井 光(アーティスト)
竹田恵子(文化研究)
豊嶋康子(アーティスト)
田中功起(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
加治屋 健司(美術史・表象文化論)
長谷川 仁美(キュレーター)
井上文雄(CAMP)
成原 慧(法学)
美術館の公式見解を現時点で明確には得られていないので、本フォーラムからの問題提起等については今後の経過をみながら、適宜速やかに行っていきたいと思います。いずれにせよ、美術館という公共的・社会的な教育・展示施設のあり方について、広く社会的・芸術学的・公共政策的・法的な議論が深められる必要があると考えます。
そのための開かれた議論の場を、「社会の芸術フォーラム」でも用意したいと考えています。
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社会の芸術フォーラム
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北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)
粟生田弓(写真研究)
小倉 涌(アーティスト)
藤井 光(アーティスト)
竹田恵子(文化研究)
豊嶋康子(アーティスト)
田中功起(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
加治屋 健司(美術史・表象文化論)
長谷川 仁美(キュレーター)
井上文雄(CAMP)
成原 慧(法学)
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