質的調査とは、一般にフィールドワークやインタビュー、新聞や雑誌、書籍を対象とした文献調査など様々な手法を含みます。今回はその中でもとりわけインタビューの実施を前提に、調査を企画、実施し、アウトプットするまでの流れについて話します。
近年、フィールドワークやインタビューに基づいて作品を制作するアーティストが増えてきました。その際前提となる社会調査の調査倫理や調査プロセスを紹介することで、よりよい作品をつくるきっかけとなればと考えています。
日程:2016年12月17日(土)、2017年1月14日(土)
時間:14:00~18:30
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細はメールでお伝えします)
講師:團康晃(東京大学大学院学際情報学府博士課程/社会学、メディア論専攻)
料金:無料 定員:15名程度
【 12月17日 】
●調査倫理と調査依頼手続きについて
・調査倫理について
・調査依頼の手続きとフィールドへのアクセスについて
●調査の実施とデータ整理について
・調査の実施にあたってのテーマ設定、問いの設定
・聞き取りの際の工夫について
・データの整理の仕方
●データの分析について
・自らの問いとデータの関係について
・分析の事例紹介
【 1月14日 】
●課題のプレゼンテーションとディスカッション
<課題について>
12月のレクチャーの後、レクチャーを踏まえて実際に聞き取り(を中心とした)調査を行い、課題を提出していただきます(1月のレクチャーはその課題を踏まえて実施します)。そのため、当レクチャーを応募する際に、自分の問題関心、調査をしたいことを提出してください。
<12月17日と1月14日の参加申込>
https://goo.gl/forms/MIKwhWkItdLFC8hX2
※受付を終了しました
<12月17日の聴講申込>
https://goo.gl/forms/rF5NStHcyXFLCAVN2
※受付は12/13まで
團康晃|Dan Yasuaki
1985年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程。社会学、メディア論専攻。『最強の社会調査入門』(共著、2016年、ナカニシヤ出版)、「書きかわる慰安の動線書きかわる慰安の動線―特需佐世保における「輪タク」と行政の相互作用を事例に―」(『年報社会学論集』(28)(2015年))、「学校の中の物語作者たち――大学ノートを用いた協同での物語制作を事例に」(『子ども社会研究』(20)(2014年))ほか。
第八回フォーラム「美術と教育」
図画工作も含めれば、日本人は少なくとも9年間美術の教育を受けている。その教育を受けた成果として、私たちは何の力を身に着けているのだろうか。画力? 絵を描くことが美術だと、21世紀の現在、言うことができるだろうか? もっと言えば、上手く描けるようになる授業なんてものをする教師もいない。教えてもいないのに、能力は評価される。はたしてこれは何の教育なのだろうか。
Art EducationとEducation Through Art。美術教育と一言で言っても、実はその中にこの二つの意味が含まれている。前者は美術そのものを教える教育ということだ。美術に高い価値を認める社会にあっては、美術そのものを教育することにも価値があるとされ、専門教育のみならず、小学校や中学校といった普通教育においても美術そのものの教育はなされてきた。「美術とは絵を描く教科」だと広く認識されているが、それは絵を描くことが美術そのものであり、美術そのものを学ぶことが美術科だと信じられてきたからである。
一方後者は「美術による教育」ということになるが、美術そのものの教育を目的とせず、美術の活動(表現・鑑賞)を通して個人が獲得する知識・技能が重要であるという立場を指す。この場合の知識・技能は美術の分野において有用なものという意味ではなく、日常の生活実践において様々なレベルで人に有用なものということである。絵を描くことを例にすれば、良い絵を描けるようになることを前者の芸術そのものの教育が目指しがちなのに対して、後者では、絵を描くことを通して獲得される能力を通じていかに人間的な成長を果たすかが問題とされる。後者の代表的論者はハーバート・リードである。彼にとって美術教育は「人間の意識―すなわち人間個人の知能や判断―の基礎となっている諸感覚の教育」に他ならない。
教育のみならず現代の社会における芸術において、この二つの立場の力学が変化しつつある。自律的であるという扱いゆえに機能が求められなかった芸術だが、近年芸術のもつ外的効用が有用な機能として喧伝されることが増えている。つまり、後者の「美術による教育」に近い立場だ。これは義務教育課程や行政の芸術文化政策において顕著だと言える。しかし、この変化は、広く共有されているというよりは分裂を生じさせているように見える。
昨今の状況はさらに難しい新たな課題を我々に突き付けている。芸術が自律的に存在する以上、その外部に対してはほとんど制度的な関心は持たれなかったし、持なくてもよかった。しかし70年代以降、アースワークやパフォーマンスなど美術の表現行為は、制度的に成立している美術館やギャラリーから出ていき、現実の社会との接触を望むようになった。もちろん無味無臭の中立的空間としてのホワイトキューブと現実の社会とでは、作品を成立させる条件が全く異なり、川俣正のような作家はそのことに意味を求めてアートワールドの外部へと出て行った。そして2000年代以降の日本では、様々な地域アートイベントが各地で催されるようになり、地域社会の歴史や伝統、経済構造、コミュニティに関わる作品が増えている。
しかし、旧来の「(近代)美術の教育」を受けてきた作家たちは、いかなる資格においてそれらを表現することを許されるのだろうか。もちろん「表現の自由」は万人が有するものだ。しかしそれは無制限の権利ではないし、プロフェッショナルとして関わる際には、その専門性とは何かが問われるべきなのは言うまでもない。社会に関わる表現を行うのに、社会について素人でいることは許されるのだろうか。素人であるがゆえに意味のある表現が成立することもあるだろう。しかし、微妙な問題を孕む領域でそう振る舞うことが暴力とか破壊の行為となることもありうる。
実のところ、空間的には美術の世界から出ていても、作品の意味生成の論理は相も変わらずアートワールドのものに過ぎないケースは少なくない。そのことは場合によって、他者の人権を踏みにじることにさえ通じ、少しずつ積み上げられたものを一気に壊してしまうことさえもあるだろう。一方でクレア・ビショップに代表されるリレーショナル・アート批判では、多くのコミュニティの成員に安易に受け入れられもの提供することが美術に求められるものなのかという問いが投げかけられるが、緊張関係を強いる敵対性をコミュニティに持ち込めばよいということでももちろんないはずだ。おそらくは作品を構成する新たな要素を学ぶことが求められている。
社会との関係において、感性に基づいた表現行為である美術作品が果たせる役割は極めて大きいはずだという立場に立つとき、我々は美術教育で一体何を学ぶべきなのか、今回の社会の芸術フォーラム「美術と教育」では、そのことについて考えたい。
===
第八回フォーラム「美術と教育」
===
日時:2016年11月23日(水・祝)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
https://goo.gl/forms/XYdaMpSa3arSGqLo2
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
青山 悟(アーティスト)
縣 拓充(教育心理学、千葉大学)
郷 泰典(東京都現代美術館 教育普及)
西村徳行(美術科教育学、東京学芸大学)
【 司会・進行 】
岡田裕子(アーティスト、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)
Art EducationとEducation Through Art。美術教育と一言で言っても、実はその中にこの二つの意味が含まれている。前者は美術そのものを教える教育ということだ。美術に高い価値を認める社会にあっては、美術そのものを教育することにも価値があるとされ、専門教育のみならず、小学校や中学校といった普通教育においても美術そのものの教育はなされてきた。「美術とは絵を描く教科」だと広く認識されているが、それは絵を描くことが美術そのものであり、美術そのものを学ぶことが美術科だと信じられてきたからである。
一方後者は「美術による教育」ということになるが、美術そのものの教育を目的とせず、美術の活動(表現・鑑賞)を通して個人が獲得する知識・技能が重要であるという立場を指す。この場合の知識・技能は美術の分野において有用なものという意味ではなく、日常の生活実践において様々なレベルで人に有用なものということである。絵を描くことを例にすれば、良い絵を描けるようになることを前者の芸術そのものの教育が目指しがちなのに対して、後者では、絵を描くことを通して獲得される能力を通じていかに人間的な成長を果たすかが問題とされる。後者の代表的論者はハーバート・リードである。彼にとって美術教育は「人間の意識―すなわち人間個人の知能や判断―の基礎となっている諸感覚の教育」に他ならない。
教育のみならず現代の社会における芸術において、この二つの立場の力学が変化しつつある。自律的であるという扱いゆえに機能が求められなかった芸術だが、近年芸術のもつ外的効用が有用な機能として喧伝されることが増えている。つまり、後者の「美術による教育」に近い立場だ。これは義務教育課程や行政の芸術文化政策において顕著だと言える。しかし、この変化は、広く共有されているというよりは分裂を生じさせているように見える。
昨今の状況はさらに難しい新たな課題を我々に突き付けている。芸術が自律的に存在する以上、その外部に対してはほとんど制度的な関心は持たれなかったし、持なくてもよかった。しかし70年代以降、アースワークやパフォーマンスなど美術の表現行為は、制度的に成立している美術館やギャラリーから出ていき、現実の社会との接触を望むようになった。もちろん無味無臭の中立的空間としてのホワイトキューブと現実の社会とでは、作品を成立させる条件が全く異なり、川俣正のような作家はそのことに意味を求めてアートワールドの外部へと出て行った。そして2000年代以降の日本では、様々な地域アートイベントが各地で催されるようになり、地域社会の歴史や伝統、経済構造、コミュニティに関わる作品が増えている。
しかし、旧来の「(近代)美術の教育」を受けてきた作家たちは、いかなる資格においてそれらを表現することを許されるのだろうか。もちろん「表現の自由」は万人が有するものだ。しかしそれは無制限の権利ではないし、プロフェッショナルとして関わる際には、その専門性とは何かが問われるべきなのは言うまでもない。社会に関わる表現を行うのに、社会について素人でいることは許されるのだろうか。素人であるがゆえに意味のある表現が成立することもあるだろう。しかし、微妙な問題を孕む領域でそう振る舞うことが暴力とか破壊の行為となることもありうる。
実のところ、空間的には美術の世界から出ていても、作品の意味生成の論理は相も変わらずアートワールドのものに過ぎないケースは少なくない。そのことは場合によって、他者の人権を踏みにじることにさえ通じ、少しずつ積み上げられたものを一気に壊してしまうことさえもあるだろう。一方でクレア・ビショップに代表されるリレーショナル・アート批判では、多くのコミュニティの成員に安易に受け入れられもの提供することが美術に求められるものなのかという問いが投げかけられるが、緊張関係を強いる敵対性をコミュニティに持ち込めばよいということでももちろんないはずだ。おそらくは作品を構成する新たな要素を学ぶことが求められている。
社会との関係において、感性に基づいた表現行為である美術作品が果たせる役割は極めて大きいはずだという立場に立つとき、我々は美術教育で一体何を学ぶべきなのか、今回の社会の芸術フォーラム「美術と教育」では、そのことについて考えたい。
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第八回フォーラム「美術と教育」
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日時:2016年11月23日(水・祝)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
https://goo.gl/forms/XYdaMpSa3arSGqLo2
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
青山 悟(アーティスト)
縣 拓充(教育心理学、千葉大学)
郷 泰典(東京都現代美術館 教育普及)
西村徳行(美術科教育学、東京学芸大学)
【 司会・進行 】
岡田裕子(アーティスト、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)
「社会の芸術」を考えるための基礎知識
「障がい」「性暴力」「セクシュアリティ」「ジェンダー」「移民・外国人」「部落」「家族」「災害・ボランティア」など、社会におけるアクチュアルな諸問題をテーマにしたレクチャーを開催します。具体的な出来事、アートやポピュラー・カルチャーの作品を挙げて、わかりやすく解説します。連続してご参加いただくことによって、より広く深く内容を掘り下げます。
期間:2016年10月〜2017年3月
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細はメールでお伝えします)
料金:無料
定員:25名程度
<参加申込>
https://goo.gl/forms/SHZIAMwuox0Xdyzl2
※受付を終了しました
<追加申込>
https://goo.gl/forms/enHXWQcoHcNJTX3L2
※各回、10名程度の追加募集をおこないます
<スケジュール>
10月3日(月)19:00〜21:00
「障がい」後藤吉彦(専修大学 准教授)
10月28日(金)19:00〜21:00
「性暴力」牧野雅子(京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員)
11月4日(金)19:00〜21:00
「セクシュアリティ」岩川ありさ(東京大学リベラルアーツ・プログラム 教務補佐)
12月22日(木)19:00〜21:00
「ジェンダー」田中俊之(武蔵大学 助教)
2月7日(火)19:00〜21:00
「家族」松木洋人(大阪市立大学大学院 准教授)
2月14日(火)19:00〜21:00
「移民・外国人」韓東賢(日本映画大学 准教授)
2月24日(金)19:00〜21:00
「災害・ボランティア」仁平典宏(東京大学 准教授)
3月3日(金)19:00〜21:00
「部落」齋藤直子(大阪市立大学 特任准教授)
後藤吉彦|Goto Yoshihiko
専修大学人間科学部准教授。神戸大学文化学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。主な著書に『手招くフリーク──文化と表現の障害学』(共著、2010年、生活書院)、『身体の社会学のブレークスルー 差異の政治から普遍性の政治へ』(2007年、生活書院)等がある。
牧野雅子|Makino Masako
京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員。博士(人間・環境学、京都大学)。社会学、ジェンダー研究。著書・論文に『刑事司法とジェンダー』(2013年、インパクト出版会)、『生と死のケアを考える』(共著、2000年、法藏館)、「『性暴力加害者の語り』と安倍談話」『世界』(2015年10月号)、「戦時体制下における出征兵士の妻に対する姦通取締り」『ジェンダーと法』11号(2014年)等がある。
岩川ありさ|Iwakawa Arisa
東京大学リベラルアーツ・プログラム教務補佐。早稲田大学、立教大学ほか非常勤講師。専門は、日本現代文学、クィア批評、トラウマ研究。論文に、「『痛み』の認識論の方へ——文学の言葉と当事者研究をつないで」(『現代思想』2011年8月号)、「境界の乗り越え方——多和田葉子『容疑者の夜行列車』をめぐって」(『論叢クィア』第5号、2012年)など。『美術手帖』(2016年7月号)「2.5次元文化」特集で詩人の川口晴美さんと対談するなどポピュラー文化の研究も行っている。
田中俊之|Tanaka Toshiyuki
1975年東京都生まれ。武蔵大学社会学部助教。博士(社会学)。社会学・男性学・キャリア教育論を主な研究分野とする。著書に『男性学の新展開』(2009年、青弓社)、『男がつらいよ―絶望の時代の希望の男性学』(2015年、KADOKAWA)等多数。「日本では“男”であることと“働く”ということとの結びつきがあまりにも強すぎる」と警鐘を鳴らしている男性学の第一人者。
松木洋人|Matsuki Hiroto
大阪市立大学大学院生活科学研究科准教授。博士(社会学)。専門は家族社会学。主な著書に『子育て支援の社会学――社会化のジレンマと家族の変容』(単著、2013年、新泉社)、『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』(共著、2016年、青弓社)など。
韓東賢|Han, Tong-hyon
日本映画大学准教授。1968年東京生まれ。専攻は社会学。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティの問題など。主なフィールドは在日外国人問題とその周辺、とくに朝鮮学校とそのコミュニティの在日朝鮮人。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)―その誕生と朝鮮学校の女性たち』(2006年、双風舎 ※現在は電子版発売中)、『平成史【増補新版】』(共著、2014年、河出書房新社)など。
仁平典宏|Nihei Norihiro
東京大学大学院教育学研究科比較教育社会学講座 准教授。NPO・ボランティアに代表される日本の市民社会の歴史・経済基盤・権力との関係等について、社会学的な観点から研究を行っている。主な著書に『「ボランティア」の誕生と終焉 -〈贈与のパラドックス〉の知識社会学-』(2011年、名古屋大学出版会)、『平成史(増補版)』(共著、2014年、河出書房新社)がある。
齋藤直子|Saito Naoko
大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授。奈良女子大学大学院人間文化研究科複合領域科学専攻博士後期課程修了、博士(学術)。部落問題研究と家族社会学の観点から、部落出身者への結婚差別問題について研究している。論文・エッセイに「全国部落青年の雇用・生活実態調査結果(4)女性の労働」『部落解放研究』196号(2012年)、「部落出身者と結婚差別」(SYNODOS http://synodos.jp/society/10900、2014年)などがある。
期間:2016年10月〜2017年3月
場所:東京大学 本郷キャンパス(詳細はメールでお伝えします)
料金:無料
定員:25名程度
<参加申込>
https://goo.gl/forms/SHZIAMwuox0Xdyzl2
※受付を終了しました
<追加申込>
https://goo.gl/forms/enHXWQcoHcNJTX3L2
※各回、10名程度の追加募集をおこないます
<スケジュール>
10月3日(月)19:00〜21:00
「障がい」後藤吉彦(専修大学 准教授)
10月28日(金)19:00〜21:00
「性暴力」牧野雅子(京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員)
11月4日(金)19:00〜21:00
「セクシュアリティ」岩川ありさ(東京大学リベラルアーツ・プログラム 教務補佐)
12月22日(木)19:00〜21:00
「ジェンダー」田中俊之(武蔵大学 助教)
2月7日(火)19:00〜21:00
「家族」松木洋人(大阪市立大学大学院 准教授)
2月14日(火)19:00〜21:00
「移民・外国人」韓東賢(日本映画大学 准教授)
2月24日(金)19:00〜21:00
「災害・ボランティア」仁平典宏(東京大学 准教授)
3月3日(金)19:00〜21:00
「部落」齋藤直子(大阪市立大学 特任准教授)
後藤吉彦|Goto Yoshihiko
専修大学人間科学部准教授。神戸大学文化学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。主な著書に『手招くフリーク──文化と表現の障害学』(共著、2010年、生活書院)、『身体の社会学のブレークスルー 差異の政治から普遍性の政治へ』(2007年、生活書院)等がある。
牧野雅子|Makino Masako
京都大学文学研究科アジア親密圏/公共圏教育研究センター 教務補佐員。博士(人間・環境学、京都大学)。社会学、ジェンダー研究。著書・論文に『刑事司法とジェンダー』(2013年、インパクト出版会)、『生と死のケアを考える』(共著、2000年、法藏館)、「『性暴力加害者の語り』と安倍談話」『世界』(2015年10月号)、「戦時体制下における出征兵士の妻に対する姦通取締り」『ジェンダーと法』11号(2014年)等がある。
岩川ありさ|Iwakawa Arisa
東京大学リベラルアーツ・プログラム教務補佐。早稲田大学、立教大学ほか非常勤講師。専門は、日本現代文学、クィア批評、トラウマ研究。論文に、「『痛み』の認識論の方へ——文学の言葉と当事者研究をつないで」(『現代思想』2011年8月号)、「境界の乗り越え方——多和田葉子『容疑者の夜行列車』をめぐって」(『論叢クィア』第5号、2012年)など。『美術手帖』(2016年7月号)「2.5次元文化」特集で詩人の川口晴美さんと対談するなどポピュラー文化の研究も行っている。
田中俊之|Tanaka Toshiyuki
1975年東京都生まれ。武蔵大学社会学部助教。博士(社会学)。社会学・男性学・キャリア教育論を主な研究分野とする。著書に『男性学の新展開』(2009年、青弓社)、『男がつらいよ―絶望の時代の希望の男性学』(2015年、KADOKAWA)等多数。「日本では“男”であることと“働く”ということとの結びつきがあまりにも強すぎる」と警鐘を鳴らしている男性学の第一人者。
松木洋人|Matsuki Hiroto
大阪市立大学大学院生活科学研究科准教授。博士(社会学)。専門は家族社会学。主な著書に『子育て支援の社会学――社会化のジレンマと家族の変容』(単著、2013年、新泉社)、『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』(共著、2016年、青弓社)など。
韓東賢|Han, Tong-hyon
日本映画大学准教授。1968年東京生まれ。専攻は社会学。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティの問題など。主なフィールドは在日外国人問題とその周辺、とくに朝鮮学校とそのコミュニティの在日朝鮮人。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)―その誕生と朝鮮学校の女性たち』(2006年、双風舎 ※現在は電子版発売中)、『平成史【増補新版】』(共著、2014年、河出書房新社)など。
仁平典宏|Nihei Norihiro
東京大学大学院教育学研究科比較教育社会学講座 准教授。NPO・ボランティアに代表される日本の市民社会の歴史・経済基盤・権力との関係等について、社会学的な観点から研究を行っている。主な著書に『「ボランティア」の誕生と終焉 -〈贈与のパラドックス〉の知識社会学-』(2011年、名古屋大学出版会)、『平成史(増補版)』(共著、2014年、河出書房新社)がある。
齋藤直子|Saito Naoko
大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授。奈良女子大学大学院人間文化研究科複合領域科学専攻博士後期課程修了、博士(学術)。部落問題研究と家族社会学の観点から、部落出身者への結婚差別問題について研究している。論文・エッセイに「全国部落青年の雇用・生活実態調査結果(4)女性の労働」『部落解放研究』196号(2012年)、「部落出身者と結婚差別」(SYNODOS http://synodos.jp/society/10900、2014年)などがある。
第七回フォーラム「検閲」
検閲を禁じ表現の自由を保障するという日本国憲法の意義が揺らぎつつある。今回は、表現の自由、表現者と文化組織の自律性がより危ういものとなりつつある今日の文化生産の状況を、社会学、憲法学的な視点も含めて考察する。
これに直接的に関わる近年の事例としては、「これからの写真」展(愛知県美術館, 2014年)での鷹野隆大の作品に対する愛知県警察からの撤去指導、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」(東京都現代美術館, 2015年)での会田家《檄》に対する美術館側からの撤去要請、「ふぞろいなハーモニー」(広島市現代美術館, 2016年)でのリュー・ディン《2013年のカール・マルクス》に対する中国当局による輸出不許可と美術館側の対応などがある。
また、アーティストからは「ある国でのビエンナーレへの出品をキュレーターから打診された際に、主催者の国際交流基金よりNGが出た」「『安倍政権になってから、海外での事業へのチェックが厳しくなっている。書類としての通達はないが、最近は放射能、福島、慰安婦、朝鮮などのNGワードがあり、それに背くと首相に近い部署の人間から直接クレームがくる』とのこと。NGワードをぼかすような編集も提案されたが、結局は他の作品を出品することで合意」(Chim↑Pom)、「国際交流基金では、歴史、特に加害の歴史を扱えない。それを含めるとやんわり断られるが、はっきりした理由は明示されない」(小泉明郎)などの声が上がっている。
このような状況の中、東京都現代美術館は今年「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展を開催し、これに関連してARTISTS' GUILDと芸術公社が『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』を出版した。また、美術評論家連盟の有志がシンポジウム「美術と表現の自由」を開催するなど、「規制」や「検閲」についての様々な議論が行なわれている。
今回のフォーラムでは、表現の自由の意義を今一度根本から問いつつ、表現の自由は歴史的にどのように獲得または規制されてきたのか、何が検閲や事前抑制にあたり、その力を働かせる主体は誰/何か、事後処罰が表現の自由にどのような影響を与えるのか、また、公的機関や公的助成事業において、表現の自由は保障されうるのかといった問題を共有し、これからの文化生産の可能性を探る。
===
第七回フォーラム「検閲」
===
日時:2016年9月25日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
http://goo.gl/84MXpM
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
岡﨑乾二郎(造形作家、批評家)
佐藤卓己(社会学、歴史学)
志田陽子(憲法学)
藤井光(アーティスト)
【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)
これに直接的に関わる近年の事例としては、「これからの写真」展(愛知県美術館, 2014年)での鷹野隆大の作品に対する愛知県警察からの撤去指導、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」(東京都現代美術館, 2015年)での会田家《檄》に対する美術館側からの撤去要請、「ふぞろいなハーモニー」(広島市現代美術館, 2016年)でのリュー・ディン《2013年のカール・マルクス》に対する中国当局による輸出不許可と美術館側の対応などがある。
また、アーティストからは「ある国でのビエンナーレへの出品をキュレーターから打診された際に、主催者の国際交流基金よりNGが出た」「『安倍政権になってから、海外での事業へのチェックが厳しくなっている。書類としての通達はないが、最近は放射能、福島、慰安婦、朝鮮などのNGワードがあり、それに背くと首相に近い部署の人間から直接クレームがくる』とのこと。NGワードをぼかすような編集も提案されたが、結局は他の作品を出品することで合意」(Chim↑Pom)、「国際交流基金では、歴史、特に加害の歴史を扱えない。それを含めるとやんわり断られるが、はっきりした理由は明示されない」(小泉明郎)などの声が上がっている。
このような状況の中、東京都現代美術館は今年「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展を開催し、これに関連してARTISTS' GUILDと芸術公社が『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』を出版した。また、美術評論家連盟の有志がシンポジウム「美術と表現の自由」を開催するなど、「規制」や「検閲」についての様々な議論が行なわれている。
今回のフォーラムでは、表現の自由の意義を今一度根本から問いつつ、表現の自由は歴史的にどのように獲得または規制されてきたのか、何が検閲や事前抑制にあたり、その力を働かせる主体は誰/何か、事後処罰が表現の自由にどのような影響を与えるのか、また、公的機関や公的助成事業において、表現の自由は保障されうるのかといった問題を共有し、これからの文化生産の可能性を探る。
===
第七回フォーラム「検閲」
===
日時:2016年9月25日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
http://goo.gl/84MXpM
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
岡﨑乾二郎(造形作家、批評家)
佐藤卓己(社会学、歴史学)
志田陽子(憲法学)
藤井光(アーティスト)
【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
神野真吾(芸術学、社会の芸術フォーラム)
第六回フォーラム「アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?」
表現者にとって、「個人の尊重」「思想・良心の自由」「表現の自由」などの人権が保障されていることは必要不可欠である。
人権とは、「人間であればどんな社会的・政治的属性をもとうとも誰もが享有可能で、実定的な法や政治制度によって侵害されえない特異な権利である。内容的には、精神的・経済的な自由、身体の自由などによって構成される自由権のみならず、基本的な社会的生活を営むにあたって必要と考えられる条件の充足を求める社会権が含まれることが多い」とされる(『現代社会学事典』p687)。日本国憲法においても、第13条で「個人を尊重する」ことを憲法の理念とし、第11条や第97条で「基本的人権は侵すことのできない永久の権利」として保障している。しかし、具体的な人々の営みをみていくと、人権が必ずしも遵守されているとは言いがたい。さらに、7月10日に行われる参議院選挙においても、改憲は争点のひとつとなっており、人権関連項目は改正案に含まれ、さまざまな議論を引き起こしている。
アートにおいて、人権に関連する問題に関心を持っているアーティストやキュレーターも少なくない。たとえば、戦争、エイズ、ハンセン病、女性、障がい者、LGBTQ、移民/難民、原発、日米関係など。その一方、アーティストやキュレーターが、社会的に弱い立場の人を利用し、人権を犯したために批判されることもある。特に、関わる人々がアートの媒体や素材の中心的要素になる場合、それぞれの人権が問題になりやすい。
アートは、アーティストだけの営為ではなく、作品の出演者や参加者、キュレーター、批評家、ギャラリスト、コレクター、美術館のスタッフ、ボランティア、鑑賞者など、さまざまな主体による集団的営為であるので、どのような主体が、どのような判断をし、どのような責任があるか。その正当性はどのように確保できるのか。改めて考え、議論をおこなう機会をつくるべきだろう。
第六回フォーラム「アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?」では、弁護士、社会学者、アーティスト、キュレーターなど、さまざまな分野の専門家、実践者の方々をお招きし議論をおこなう。これらの方々はそれぞれの実践のなかで人権をめぐる具体的な問題と関わり思考を重ねてこられており、興味深い議論が期待できる。
===
第六回フォーラム
アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?
===
日時:2016年7月17日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
https://goo.gl/CLFRsS
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
須田洋平(弁護士)
山田創平(社会学)
小泉明郎(アーティスト)
遠藤水城(キュレーター)
【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
竹田恵子(文化研究、社会の芸術フォーラム)
人権とは、「人間であればどんな社会的・政治的属性をもとうとも誰もが享有可能で、実定的な法や政治制度によって侵害されえない特異な権利である。内容的には、精神的・経済的な自由、身体の自由などによって構成される自由権のみならず、基本的な社会的生活を営むにあたって必要と考えられる条件の充足を求める社会権が含まれることが多い」とされる(『現代社会学事典』p687)。日本国憲法においても、第13条で「個人を尊重する」ことを憲法の理念とし、第11条や第97条で「基本的人権は侵すことのできない永久の権利」として保障している。しかし、具体的な人々の営みをみていくと、人権が必ずしも遵守されているとは言いがたい。さらに、7月10日に行われる参議院選挙においても、改憲は争点のひとつとなっており、人権関連項目は改正案に含まれ、さまざまな議論を引き起こしている。
アートにおいて、人権に関連する問題に関心を持っているアーティストやキュレーターも少なくない。たとえば、戦争、エイズ、ハンセン病、女性、障がい者、LGBTQ、移民/難民、原発、日米関係など。その一方、アーティストやキュレーターが、社会的に弱い立場の人を利用し、人権を犯したために批判されることもある。特に、関わる人々がアートの媒体や素材の中心的要素になる場合、それぞれの人権が問題になりやすい。
アートは、アーティストだけの営為ではなく、作品の出演者や参加者、キュレーター、批評家、ギャラリスト、コレクター、美術館のスタッフ、ボランティア、鑑賞者など、さまざまな主体による集団的営為であるので、どのような主体が、どのような判断をし、どのような責任があるか。その正当性はどのように確保できるのか。改めて考え、議論をおこなう機会をつくるべきだろう。
第六回フォーラム「アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?」では、弁護士、社会学者、アーティスト、キュレーターなど、さまざまな分野の専門家、実践者の方々をお招きし議論をおこなう。これらの方々はそれぞれの実践のなかで人権をめぐる具体的な問題と関わり思考を重ねてこられており、興味深い議論が期待できる。
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第六回フォーラム
アートと人権:アートは人や社会とどのように関わるのか?
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日時:2016年7月17日(日)13:00〜17:00 ※開場は12:30
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
https://goo.gl/CLFRsS
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
須田洋平(弁護士)
山田創平(社会学)
小泉明郎(アーティスト)
遠藤水城(キュレーター)
【 司会・進行 】
井上文雄(CAMP、社会の芸術フォーラム)
竹田恵子(文化研究、社会の芸術フォーラム)
ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」
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ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:
メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」
湯川史郎(ボン大学)
===
日時:2016年3月16日(水)18:00〜
場所:東京大学 本郷キャンパス 情報学環本館6F(アクセス)
定員:30人
共催:東京大学大学院情報学環
<参加申込>
http://goo.gl/forms/TPZ2ydNW4g
※参加申込は前日までにお願いします
---
本ワークショップでは、F. M.トラウツが「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を通して、ある個人に由来する資料群とアーカイブとの関係、そしてその資料群全体をメディア史のアーカイブとして捉えるアプローチの可能性について議論したい。
そして、「歴史写真に基づく1860年代の日独関係の再構築」(【基盤A】課題番号2540053、研究代表 馬場章)の成果の一部を議論することも目的としている。
報告は、トラウツ資料群の中から具体例を挙げながら、以下の点に沿って行う予定である。
[1.F. M. トラウツ]
F. M. トラウツ(1877-1952)は、陸軍士官というキャリアを進むものの、第一大戦後に退役。その後は日本研究者として、ドイツの日本学の確立、そして1920年代から1930年代における日独文化交流おいて、重要な働きをした人物であった。
[2.トラウツがのこしたもの]
トラウツがのこした資料群の主要な部分は、ドイツ連邦文書館とドイツ外務省政治文書館にNachlass(個人の「遺稿/遺産」)として、ボン大学日本・韓国研究専攻にトラウツ・コレクション(Trautz-Sammlung)として収蔵されている。この資料群は、その点数もさることながら、メディア的多様性、そして内容的「雑多さ」によって特徴付けることができる。それはトラウツが - 報告者の主観的な印象だが - 「所有することができ、価値を見出した情報媒体を整理、保存し、捨てない/とっておく」という習慣を徹底して実践していたからでもある。またそれは彼が「意図的にのこしたもの」と「意図せずにしてしたもの」を含むことにも由来する。
[3.NachlassとArchiv]
ある個人が死後、意図的にあるいは意図せざるままに「のこしたもの」の総体を示す適当な言葉は、無いように思う。
そのような言葉として、学問的なコンテクストで一番に思いつくのはNachlass(遺産、遺稿あるいは文庫といった意味)であろう。ドイツの文書館(Archiv)で、個人の遺稿や書簡が収蔵される場合は、「Nachlass」として受け入れられる。それは基本的には内容や形態によって選別され、「雑多さ」が排除された結果としての資料のまとまりである。人がのこしたものがそのような制度/機関としてのアーカイブに収蔵される場合は、それらの価値基準や前提とされるメディア形態によって、選別され、雑多さが削ぎ落とされるのが通例なのだ。
[4.Nachlass/Archivの「まえ」にある/あったものとしてのHinterlassenschaft]
文書館にあるトラウツの「Nachlass」は、受け入れられた当時の「仮のまとまり」のまま、完全なカタログ化もされないまま保存されていた。それは、きわめて雑多な内容と形態のものを含み、彼が生前、整理して所有しいたままの構造をほぼ保っている。アーカイブによる選別のフィルターにをかいくぐり、そこにあるのである。
そのように各文書館や機関に散在するトラウツがのこしたものをつなぎ合わせて眺めたとき、そこに見えてくるのは、トラウツが死の直前まで「のこしておいた」雑多なもののひとまとまりである。このまとまりを、「Hinterlassenschaft」という言葉で捉えてみたいと思っている。それは法的用語としての「遺産」(Erbe)ではなく、「あとにのこす」という他動詞「hinterlassen」からの派生語として「のこしたもの/のこされたもの」という意味において、である。
この「Hinterlassenschaft」のうち、(正負の)価値を見出されたものだけが選別され、後世に伝えられてきた。アーカイブという機関のNachlassや相続における遺産(Erbe/Erbschaft)などである。
つまり、「Hinterlassenschaft」が指し示すのは、残された者が価値を投影し、解体していく前にあった(はずの)、ある個人が捨てることなくとどめておいたものであり、時間と共に雲散霧消することなくその人に寄り添い続けたもののまとまりである。それは、ある個人/故人の痕跡であり、その生によって有機的に関連付けられ、そこに留まったものの総体である。
[6.メディア史のアーカイブとしてのHinterlassenschaft、あるいは、その全体を捉えるための枠組みについて]
この残された者によって選別される前の、ある個人の痕跡の総体としての「Hinterlassenschaft」それ自体が、学問的な枠組みのなかで意味を見出されることは、伝記的な研究のほかには希であった。しかし、メディア史という視点から眺めるならば、別の意味、「メディア史のアーカイブ」を見出すことができるのではないだろうか。その雑多なものが混在するまとまりのなかに、書き込まれたメディア史を探しだしていくことでもある。
この「Hinterlassenschaft」が持つメディア史のアーカイブとしての潜在性は、「トラウツがのこしたもの」を通して確認されるはずである。
[7.トラウツの情報メディア観/習慣]
その遺書草稿の中で自らを「哲学的(言語的)というよりも視覚的な才能に恵まれていた」と自己描写していたトラウツは、メディア論的であった。言語情報と視覚情報、「名称やことば」と「実体があり目に見えるもの」を明確に区別し、前者を後者の背後にあるもの、あるいは、後者に基づき生成される副次的なものとして捉えていた。この当時の文献学的な日本学者らしくない情報メディア観は、トラウツが陸軍士官として内面化した習慣に基づくものだったかもしれない。そしてそれは、A)画像メディアへの強いこだわり、B)異なるメディアの並列的な利用、C)情報メディアそのものの保持、として彼の「Hinterlassen-schaft」に見出すことができる。
このトラウツのメディア論的側面ゆえ、彼の「Hinterlassenschaft」にはメディア史がはっきりと刻みこまれている。
[8.通事的観点]
例えば、トラウツが残したものは、その写真資料の多さで際立っている。全体を眺めると、写真のネガはガラス乾板に始まり、フィルムで終わっている。またそれらの写真は、紙やガラススライドなど、講演会や出版などの用途に合わせて多様な形態に現像され、複製されたものが残っている。そこに見出されるのが、写真を積極的に使い、環境を記録/構築していた彼の姿勢であり、そのための「道具」を常に新しくよりよいものに保ち続けた姿である。トラウツが残した写真資料を時系列にそって眺めるならば、写真(メディア)史ではあまり省みられることがなかった、アマチュアにおける写真というメディアの歴史が写されている。
[9.共時的観点]
またトラウツは、ある出来事や対象を、異なるメディアを用いて並列的に記録し、保存していた。例えば、1909/1910年の日本滞在の折、朝鮮・満洲を旅する。日露戦争の戦跡めぐりがおもな目的だった。その記録は、手書き/描きの日記、自分で撮影した写真、収集した絵葉書や地図、写真などの資料、旅程表や書簡などの旅行関係書類など多岐に渡っている。また、後日作成した日記のタイプ稿や写真アルバム、記録に基づく論文など多くの関連資料も残されている。これらの「1909/1910年の朝鮮・満洲旅行」という出来事に関連する資料群は、当時彼が手にすることができたメディアによって構成されたものであり、そこには彼のメディア環境/生態系の痕跡を見出すことができる。
このように、個人をあるメディア生態系(メディアの共進化の場)とするならば、トラウツがのこしたもののなかには「ある時点でのトラウツ」におけるメディアの共存のあり方が見出せるはずであり、それらを伝記的に各時間/時代に則して並べるならば、そこには「トラウツ」におけるメディアの共進化の歴史が見えてくるはずである。
[10.伝記的メディア史 biographische Medienhistoriographie]
ある個人が意図的にあるいは意図せずに「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を「メディア史のアーカイブ」と見立てるなら、これまでの「メディア史」とは異なるメディアの歴史が見えてくるのではないだろうか。「メディア技術の発達や社会化の歴史」あるいは「メディアによる感覚や認識の変容の歴史」など、社会や制度や集団といった大きな枠組みから/を眺めるのではない歴史である。「Hinterlassenschaft」の中の雑多なものの間にあるつながりを見つけながら、ある個人の中で絡み合いながら並存していたメディアの痕跡を確かめていくことで見えてくる、ある特殊なメディアの歴史である。
その個人的で特殊なメディア史の中には、大きな枠組みから眺めるものとは異なるメディア史が刻み込まれているのではないか、そしてそれはどのようなものでありうるのか、「Hinter-lassenschaft」という「メディア史のアーカイブ」の潜在性について、ワークショップを通して議論したいと思う。
ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:
メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」
湯川史郎(ボン大学)
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日時:2016年3月16日(水)18:00〜
場所:東京大学 本郷キャンパス 情報学環本館6F(アクセス)
定員:30人
共催:東京大学大学院情報学環
<参加申込>
http://goo.gl/forms/TPZ2ydNW4g
※参加申込は前日までにお願いします
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本ワークショップでは、F. M.トラウツが「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を通して、ある個人に由来する資料群とアーカイブとの関係、そしてその資料群全体をメディア史のアーカイブとして捉えるアプローチの可能性について議論したい。
そして、「歴史写真に基づく1860年代の日独関係の再構築」(【基盤A】課題番号2540053、研究代表 馬場章)の成果の一部を議論することも目的としている。
報告は、トラウツ資料群の中から具体例を挙げながら、以下の点に沿って行う予定である。
[1.F. M. トラウツ]
F. M. トラウツ(1877-1952)は、陸軍士官というキャリアを進むものの、第一大戦後に退役。その後は日本研究者として、ドイツの日本学の確立、そして1920年代から1930年代における日独文化交流おいて、重要な働きをした人物であった。
[2.トラウツがのこしたもの]
トラウツがのこした資料群の主要な部分は、ドイツ連邦文書館とドイツ外務省政治文書館にNachlass(個人の「遺稿/遺産」)として、ボン大学日本・韓国研究専攻にトラウツ・コレクション(Trautz-Sammlung)として収蔵されている。この資料群は、その点数もさることながら、メディア的多様性、そして内容的「雑多さ」によって特徴付けることができる。それはトラウツが - 報告者の主観的な印象だが - 「所有することができ、価値を見出した情報媒体を整理、保存し、捨てない/とっておく」という習慣を徹底して実践していたからでもある。またそれは彼が「意図的にのこしたもの」と「意図せずにしてしたもの」を含むことにも由来する。
[3.NachlassとArchiv]
ある個人が死後、意図的にあるいは意図せざるままに「のこしたもの」の総体を示す適当な言葉は、無いように思う。
そのような言葉として、学問的なコンテクストで一番に思いつくのはNachlass(遺産、遺稿あるいは文庫といった意味)であろう。ドイツの文書館(Archiv)で、個人の遺稿や書簡が収蔵される場合は、「Nachlass」として受け入れられる。それは基本的には内容や形態によって選別され、「雑多さ」が排除された結果としての資料のまとまりである。人がのこしたものがそのような制度/機関としてのアーカイブに収蔵される場合は、それらの価値基準や前提とされるメディア形態によって、選別され、雑多さが削ぎ落とされるのが通例なのだ。
[4.Nachlass/Archivの「まえ」にある/あったものとしてのHinterlassenschaft]
文書館にあるトラウツの「Nachlass」は、受け入れられた当時の「仮のまとまり」のまま、完全なカタログ化もされないまま保存されていた。それは、きわめて雑多な内容と形態のものを含み、彼が生前、整理して所有しいたままの構造をほぼ保っている。アーカイブによる選別のフィルターにをかいくぐり、そこにあるのである。
そのように各文書館や機関に散在するトラウツがのこしたものをつなぎ合わせて眺めたとき、そこに見えてくるのは、トラウツが死の直前まで「のこしておいた」雑多なもののひとまとまりである。このまとまりを、「Hinterlassenschaft」という言葉で捉えてみたいと思っている。それは法的用語としての「遺産」(Erbe)ではなく、「あとにのこす」という他動詞「hinterlassen」からの派生語として「のこしたもの/のこされたもの」という意味において、である。
この「Hinterlassenschaft」のうち、(正負の)価値を見出されたものだけが選別され、後世に伝えられてきた。アーカイブという機関のNachlassや相続における遺産(Erbe/Erbschaft)などである。
つまり、「Hinterlassenschaft」が指し示すのは、残された者が価値を投影し、解体していく前にあった(はずの)、ある個人が捨てることなくとどめておいたものであり、時間と共に雲散霧消することなくその人に寄り添い続けたもののまとまりである。それは、ある個人/故人の痕跡であり、その生によって有機的に関連付けられ、そこに留まったものの総体である。
[6.メディア史のアーカイブとしてのHinterlassenschaft、あるいは、その全体を捉えるための枠組みについて]
この残された者によって選別される前の、ある個人の痕跡の総体としての「Hinterlassenschaft」それ自体が、学問的な枠組みのなかで意味を見出されることは、伝記的な研究のほかには希であった。しかし、メディア史という視点から眺めるならば、別の意味、「メディア史のアーカイブ」を見出すことができるのではないだろうか。その雑多なものが混在するまとまりのなかに、書き込まれたメディア史を探しだしていくことでもある。
この「Hinterlassenschaft」が持つメディア史のアーカイブとしての潜在性は、「トラウツがのこしたもの」を通して確認されるはずである。
[7.トラウツの情報メディア観/習慣]
その遺書草稿の中で自らを「哲学的(言語的)というよりも視覚的な才能に恵まれていた」と自己描写していたトラウツは、メディア論的であった。言語情報と視覚情報、「名称やことば」と「実体があり目に見えるもの」を明確に区別し、前者を後者の背後にあるもの、あるいは、後者に基づき生成される副次的なものとして捉えていた。この当時の文献学的な日本学者らしくない情報メディア観は、トラウツが陸軍士官として内面化した習慣に基づくものだったかもしれない。そしてそれは、A)画像メディアへの強いこだわり、B)異なるメディアの並列的な利用、C)情報メディアそのものの保持、として彼の「Hinterlassen-schaft」に見出すことができる。
このトラウツのメディア論的側面ゆえ、彼の「Hinterlassenschaft」にはメディア史がはっきりと刻みこまれている。
[8.通事的観点]
例えば、トラウツが残したものは、その写真資料の多さで際立っている。全体を眺めると、写真のネガはガラス乾板に始まり、フィルムで終わっている。またそれらの写真は、紙やガラススライドなど、講演会や出版などの用途に合わせて多様な形態に現像され、複製されたものが残っている。そこに見出されるのが、写真を積極的に使い、環境を記録/構築していた彼の姿勢であり、そのための「道具」を常に新しくよりよいものに保ち続けた姿である。トラウツが残した写真資料を時系列にそって眺めるならば、写真(メディア)史ではあまり省みられることがなかった、アマチュアにおける写真というメディアの歴史が写されている。
[9.共時的観点]
またトラウツは、ある出来事や対象を、異なるメディアを用いて並列的に記録し、保存していた。例えば、1909/1910年の日本滞在の折、朝鮮・満洲を旅する。日露戦争の戦跡めぐりがおもな目的だった。その記録は、手書き/描きの日記、自分で撮影した写真、収集した絵葉書や地図、写真などの資料、旅程表や書簡などの旅行関係書類など多岐に渡っている。また、後日作成した日記のタイプ稿や写真アルバム、記録に基づく論文など多くの関連資料も残されている。これらの「1909/1910年の朝鮮・満洲旅行」という出来事に関連する資料群は、当時彼が手にすることができたメディアによって構成されたものであり、そこには彼のメディア環境/生態系の痕跡を見出すことができる。
このように、個人をあるメディア生態系(メディアの共進化の場)とするならば、トラウツがのこしたもののなかには「ある時点でのトラウツ」におけるメディアの共存のあり方が見出せるはずであり、それらを伝記的に各時間/時代に則して並べるならば、そこには「トラウツ」におけるメディアの共進化の歴史が見えてくるはずである。
[10.伝記的メディア史 biographische Medienhistoriographie]
ある個人が意図的にあるいは意図せずに「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を「メディア史のアーカイブ」と見立てるなら、これまでの「メディア史」とは異なるメディアの歴史が見えてくるのではないだろうか。「メディア技術の発達や社会化の歴史」あるいは「メディアによる感覚や認識の変容の歴史」など、社会や制度や集団といった大きな枠組みから/を眺めるのではない歴史である。「Hinterlassenschaft」の中の雑多なものの間にあるつながりを見つけながら、ある個人の中で絡み合いながら並存していたメディアの痕跡を確かめていくことで見えてくる、ある特殊なメディアの歴史である。
その個人的で特殊なメディア史の中には、大きな枠組みから眺めるものとは異なるメディア史が刻み込まれているのではないか、そしてそれはどのようなものでありうるのか、「Hinter-lassenschaft」という「メディア史のアーカイブ」の潜在性について、ワークショップを通して議論したいと思う。
レクチャー #8 「表現の(不)自由」
成原慧氏(情報法、東京大学大学院情報学環客員研究員)をお迎えし、第五回フォーラム「〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界」のフォローアップを実施いたします。
===
レクチャー #8 「表現の(不)自由」
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日時:2016年3月25日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:成原慧(情報法、東京大学大学院情報学環客員研究員)
定員:50人
<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします
成原慧|Satoshi Narihara
東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。東京大学大学院情報学環助教等を経て、現在は東京大学大学院情報学環客員研究員等を務める。専門は情報法。特にインターネット上の表現の自由について「アーキテクチャ」と呼ばれる技術的手段や情報流通の媒介者の役割に着目して研究している。主な論文に、「情報流通の媒介者と表現の自由」Nextcom Vol.21(2015年)、「憲法とコンテクスト―初期ローレンス・レッシグの憲法理論―」情報学環紀要 情報学研究No.86・No.87(2014年)、「多元化・重層化する表現規制とその規律―表現の自由・アーキテクチャ・パブリックフォーラム」憲法理論研究会(編)『憲法理論叢書21 変動する社会と憲法』(敬文堂、2013年)などがある。
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レクチャー #8 「表現の(不)自由」
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日時:2016年3月25日(金)19:00~21:00
場所:お茶の水女子大学(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
講師:成原慧(情報法、東京大学大学院情報学環客員研究員)
定員:50人
<参加申込>
https://goo.gl/Q3Ei2s
※申込は前日までにお願いします
成原慧|Satoshi Narihara
東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。東京大学大学院情報学環助教等を経て、現在は東京大学大学院情報学環客員研究員等を務める。専門は情報法。特にインターネット上の表現の自由について「アーキテクチャ」と呼ばれる技術的手段や情報流通の媒介者の役割に着目して研究している。主な論文に、「情報流通の媒介者と表現の自由」Nextcom Vol.21(2015年)、「憲法とコンテクスト―初期ローレンス・レッシグの憲法理論―」情報学環紀要 情報学研究No.86・No.87(2014年)、「多元化・重層化する表現規制とその規律―表現の自由・アーキテクチャ・パブリックフォーラム」憲法理論研究会(編)『憲法理論叢書21 変動する社会と憲法』(敬文堂、2013年)などがある。
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