あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」をめぐる様々な状況を前にして

今回あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」を巡って、展示への抗議、脅迫、それによる展示の中止、その後の検証委員会の設置、アドバイザーの辞任、芸術監督からの声明、他の出品作家の展示中止の申し出など、様々な出来事が目まぐるしく展開しています。このような状況の中、私たち社会の芸術フォーラムは、この問題について以下のように考え、主催者やこの問題について深い関心を寄せる人たちに、期待とお願いをしたいと考えています。

行政権力による表現規制が、さまざまな場面において、重要な基本的人権としての表現の自由のあるべき姿を損ない、昨今の情勢の中、それが強まりつつあることを危惧するその問題意識を私たちは強く共有します。この問題は思想信条の自由をも侵害し、人のあり方にさえ力を及ぼし、私たちの社会の形をも変えてしまう危険性を持っています。
また、戦時性暴力の歴史を否定することで、そこで苦しんできた女性たちの尊厳をさらに踏みにじる行為が公然となされていることに強い憤りを覚えます。
そして、暴力を予告し、展覧会の継続を不可能にさせようとした挑戦的行為を、私たちは完全に否定します。

アートをはじめとする表現行為は、表現者の生み出す作品が与える感性的刺激によって成立しています。その刺激は人に心地よさを与えるものばかりではなく、特に20世紀以降のアートでは〈ショック〉が生み出されることをアートの必要条件とする考え方も存在します。ここで言う〈ショック〉とは、自明だとされているものやことの別の相を突きつけられた際の、感情的な揺らぎだと言えます。
ただし、その〈ショック〉から内省的な思考のプロセスを始めるのか、その〈ショック〉から直情的に判断、意味づけをし、行動に移してしまうのか、二つの岐れ道がその先にあります。〈ショック〉を伴うアート表現が、社会的に価値を持つのは、前者の感情からはじまる内省的な思考のプロセスを生起する可能性を持つからにほかなりません。

ある表現が与える〈ショック〉はさまざまな要因によって構成されています。そして特に、社会に関与、言及するアート表現であれば、要因それぞれについて、すでに深められてきた専門的な議論や実践の成果の蓄積を参照する責任がアーティストにも、キュレーターにも、鑑賞者にも求められるはずです。歴史的検証、倫理や法、ジェンダー、芸術の価値論など、そうした蓄積を個々人が踏まえ、思考の過程を通してそれらを「〈ショック〉から生じた感情」と共に統合し、単純な二項対立に落とし込むのではなく、個々人が判断をしていこうとする態度が今求められていると私たちは考えます。それは、私たちが複雑な社会に向き合い、その中で生きていく上で絶対的に必要なものであるはずです。それゆえ表現の自由を基盤に持つアートには、大きな公益性があると確信しています。芸術祭とはそのような取り組みであるはずです。

私たちは、あいちトリエンナーレの長い会期の中で、必要な情報や視点が提供され、さまざまな立場の人たちが参加可能な議論の場が準備されることを期待します。議論や対話のための環境構築がなされなければ、作品がきっかけとなる思考のプロセスが生起することはなく、作品が与える経験はそのまま、分断そして暴力へと展開してしまいます。それはアートの可能性の多くに蓋をしてしまうことでもあります。また、そうした努力の結果として、「表現の不自由展・その後」が、安全を確保した上で再開されること、展示が中断されている作家たちの作品が再び公開されることを強く期待します。

この国の表現の自由および内心の自由が守られ、さらにそれらへの理解が深められることで、多様性を尊重するアートの価値が広く共有され、より多くの支持を得るための丁寧で持続的な取り組みが求められています。本フォーラムもそのための協力を惜しまないつもりです。


2019年9月3日
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社会の芸術フォーラム
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粟生田弓(AMSEA)
井上文雄(CAMP)
岡田裕子(アーティスト)
小倉 涌(アーティスト)
加治屋 健司(美術史・表象文化論)
北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)
竹田恵子(文化研究/社会学)
チェ・キョンファ(キュレーター)
豊嶋康子(美術家)
長谷川 仁美(キュレーター)
藤井 光(アーティスト)
山本高之(アーティスト)