ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」

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ワークショップ「F. M. トラウツがのこしたもの:
メディア史のアーカイブとしてHinterlassenschaftの潜在性について」
湯川史郎(ボン大学)
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日時:2016年3月16日(水)18:00〜
場所:東京大学 本郷キャンパス 情報学環本館6F(アクセス
定員:30人
共催:東京大学大学院情報学環

<参加申込>
http://goo.gl/forms/TPZ2ydNW4g
※参加申込は前日までにお願いします

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本ワークショップでは、F. M.トラウツが「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を通して、ある個人に由来する資料群とアーカイブとの関係、そしてその資料群全体をメディア史のアーカイブとして捉えるアプローチの可能性について議論したい。
そして、「歴史写真に基づく1860年代の日独関係の再構築」(【基盤A】課題番号2540053、研究代表 馬場章)の成果の一部を議論することも目的としている。

報告は、トラウツ資料群の中から具体例を挙げながら、以下の点に沿って行う予定である。

[1.F. M. トラウツ]
F. M. トラウツ(1877-1952)は、陸軍士官というキャリアを進むものの、第一大戦後に退役。その後は日本研究者として、ドイツの日本学の確立、そして1920年代から1930年代における日独文化交流おいて、重要な働きをした人物であった。

[2.トラウツがのこしたもの]
トラウツがのこした資料群の主要な部分は、ドイツ連邦文書館とドイツ外務省政治文書館にNachlass(個人の「遺稿/遺産」)として、ボン大学日本・韓国研究専攻にトラウツ・コレクション(Trautz-Sammlung)として収蔵されている。この資料群は、その点数もさることながら、メディア的多様性、そして内容的「雑多さ」によって特徴付けることができる。それはトラウツが - 報告者の主観的な印象だが - 「所有することができ、価値を見出した情報媒体を整理、保存し、捨てない/とっておく」という習慣を徹底して実践していたからでもある。またそれは彼が「意図的にのこしたもの」と「意図せずにしてしたもの」を含むことにも由来する。

[3.NachlassとArchiv]
ある個人が死後、意図的にあるいは意図せざるままに「のこしたもの」の総体を示す適当な言葉は、無いように思う。
そのような言葉として、学問的なコンテクストで一番に思いつくのはNachlass(遺産、遺稿あるいは文庫といった意味)であろう。ドイツの文書館(Archiv)で、個人の遺稿や書簡が収蔵される場合は、「Nachlass」として受け入れられる。それは基本的には内容や形態によって選別され、「雑多さ」が排除された結果としての資料のまとまりである。人がのこしたものがそのような制度/機関としてのアーカイブに収蔵される場合は、それらの価値基準や前提とされるメディア形態によって、選別され、雑多さが削ぎ落とされるのが通例なのだ。

[4.Nachlass/Archivの「まえ」にある/あったものとしてのHinterlassenschaft]
文書館にあるトラウツの「Nachlass」は、受け入れられた当時の「仮のまとまり」のまま、完全なカタログ化もされないまま保存されていた。それは、きわめて雑多な内容と形態のものを含み、彼が生前、整理して所有しいたままの構造をほぼ保っている。アーカイブによる選別のフィルターにをかいくぐり、そこにあるのである。
そのように各文書館や機関に散在するトラウツがのこしたものをつなぎ合わせて眺めたとき、そこに見えてくるのは、トラウツが死の直前まで「のこしておいた」雑多なもののひとまとまりである。このまとまりを、「Hinterlassenschaft」という言葉で捉えてみたいと思っている。それは法的用語としての「遺産」(Erbe)ではなく、「あとにのこす」という他動詞「hinterlassen」からの派生語として「のこしたもの/のこされたもの」という意味において、である。
この「Hinterlassenschaft」のうち、(正負の)価値を見出されたものだけが選別され、後世に伝えられてきた。アーカイブという機関のNachlassや相続における遺産(Erbe/Erbschaft)などである。
つまり、「Hinterlassenschaft」が指し示すのは、残された者が価値を投影し、解体していく前にあった(はずの)、ある個人が捨てることなくとどめておいたものであり、時間と共に雲散霧消することなくその人に寄り添い続けたもののまとまりである。それは、ある個人/故人の痕跡であり、その生によって有機的に関連付けられ、そこに留まったものの総体である。

[6.メディア史のアーカイブとしてのHinterlassenschaft、あるいは、その全体を捉えるための枠組みについて]
この残された者によって選別される前の、ある個人の痕跡の総体としての「Hinterlassenschaft」それ自体が、学問的な枠組みのなかで意味を見出されることは、伝記的な研究のほかには希であった。しかし、メディア史という視点から眺めるならば、別の意味、「メディア史のアーカイブ」を見出すことができるのではないだろうか。その雑多なものが混在するまとまりのなかに、書き込まれたメディア史を探しだしていくことでもある。
この「Hinterlassenschaft」が持つメディア史のアーカイブとしての潜在性は、「トラウツがのこしたもの」を通して確認されるはずである。

[7.トラウツの情報メディア観/習慣]
その遺書草稿の中で自らを「哲学的(言語的)というよりも視覚的な才能に恵まれていた」と自己描写していたトラウツは、メディア論的であった。言語情報と視覚情報、「名称やことば」と「実体があり目に見えるもの」を明確に区別し、前者を後者の背後にあるもの、あるいは、後者に基づき生成される副次的なものとして捉えていた。この当時の文献学的な日本学者らしくない情報メディア観は、トラウツが陸軍士官として内面化した習慣に基づくものだったかもしれない。そしてそれは、A)画像メディアへの強いこだわり、B)異なるメディアの並列的な利用、C)情報メディアそのものの保持、として彼の「Hinterlassen-schaft」に見出すことができる。
このトラウツのメディア論的側面ゆえ、彼の「Hinterlassenschaft」にはメディア史がはっきりと刻みこまれている。

[8.通事的観点]
例えば、トラウツが残したものは、その写真資料の多さで際立っている。全体を眺めると、写真のネガはガラス乾板に始まり、フィルムで終わっている。またそれらの写真は、紙やガラススライドなど、講演会や出版などの用途に合わせて多様な形態に現像され、複製されたものが残っている。そこに見出されるのが、写真を積極的に使い、環境を記録/構築していた彼の姿勢であり、そのための「道具」を常に新しくよりよいものに保ち続けた姿である。トラウツが残した写真資料を時系列にそって眺めるならば、写真(メディア)史ではあまり省みられることがなかった、アマチュアにおける写真というメディアの歴史が写されている。

[9.共時的観点]
またトラウツは、ある出来事や対象を、異なるメディアを用いて並列的に記録し、保存していた。例えば、1909/1910年の日本滞在の折、朝鮮・満洲を旅する。日露戦争の戦跡めぐりがおもな目的だった。その記録は、手書き/描きの日記、自分で撮影した写真、収集した絵葉書や地図、写真などの資料、旅程表や書簡などの旅行関係書類など多岐に渡っている。また、後日作成した日記のタイプ稿や写真アルバム、記録に基づく論文など多くの関連資料も残されている。これらの「1909/1910年の朝鮮・満洲旅行」という出来事に関連する資料群は、当時彼が手にすることができたメディアによって構成されたものであり、そこには彼のメディア環境/生態系の痕跡を見出すことができる。
このように、個人をあるメディア生態系(メディアの共進化の場)とするならば、トラウツがのこしたもののなかには「ある時点でのトラウツ」におけるメディアの共存のあり方が見出せるはずであり、それらを伝記的に各時間/時代に則して並べるならば、そこには「トラウツ」におけるメディアの共進化の歴史が見えてくるはずである。

[10.伝記的メディア史 biographische Medienhistoriographie]
ある個人が意図的にあるいは意図せずに「のこしたもの/Hinterlassenschaft」を「メディア史のアーカイブ」と見立てるなら、これまでの「メディア史」とは異なるメディアの歴史が見えてくるのではないだろうか。「メディア技術の発達や社会化の歴史」あるいは「メディアによる感覚や認識の変容の歴史」など、社会や制度や集団といった大きな枠組みから/を眺めるのではない歴史である。「Hinterlassenschaft」の中の雑多なものの間にあるつながりを見つけながら、ある個人の中で絡み合いながら並存していたメディアの痕跡を確かめていくことで見えてくる、ある特殊なメディアの歴史である。
その個人的で特殊なメディア史の中には、大きな枠組みから眺めるものとは異なるメディア史が刻み込まれているのではないか、そしてそれはどのようなものでありうるのか、「Hinter-lassenschaft」という「メディア史のアーカイブ」の潜在性について、ワークショップを通して議論したいと思う。