第五回フォーラム「〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界」

表現の自由と芸術。社会とアートとの関係において、これほど繰り返し議論されてきた論点も珍しいだろう。社会制度的な外的制約との闘争、あるいは自らが欲する行動を自ら決定する自律性をめぐる葛藤が、様々な時代、様々な場面、様々な地域で繰り返し行われてきた。その代表的な議論は、性的と見なしうる表現をめぐってものだと言える。古典的な絵画や彫刻が裸体をモチーフとして愛好したこと、近代におけるアートワールドの転換の後も、裸体や性的事象は文学や芸術の「素材」として受け継がれてきた。

というよりも、フーコーに即していうなら、「厳格な」ヴィクトリア的異性愛中心主義的な性規範が浸透するなかで、性的な事象は逆に「厳格な規律」を突き崩す契機として、よりいっそう強い意味を担わされるようになったともいえる。法や規範が性を「表に出てはいけないもの」として秘匿化すればするほど、「表に出すこと」の政治的・社会的なメッセージの強度は高まる。性規範の厳格化と、性に関する語り・表現の氾濫とは、表裏の関係であり続けてきた。そうした共犯関係のもと、「過激な」性表現は、教会や国家・法が定める「猥褻/非猥褻」の区別に依拠し、その区別の境界線を問題化するという形で、その存在価値を証示し続けてきた。「猥褻であるが、芸術である」ということが、責任を減免する根拠として主張され続けたのもそのためである。それは同時に、「猥褻」や「芸術的価値の評価」がジェンダーという観点を削ぎ落す形で定式化されてきた(きている)ことも意味している。「性的であること/ないこと」の定式化、「芸術/猥褻」の区別そのものが、ジェンダーの非対称性のもとなされてきたこと、つまり「表現の自由(芸術)vs猥褻」という認識の構図そのものがジェンダー化されてきた歴史(その構図への/の外での批判が繰り返し提示されてきたこと)を忘れるわけにはいかない。

ヴィクトリア的性・ジェンダー規範(homeに内閉され、子どもに禁じられた)の強化と、性的表現が持つ芸術的価値の高騰との共犯関係は、しかし、ここ半世紀ほどのあいだでたしかに大きく変わってきている。性と愛と結婚の三点セットの構造は解除され、街中には性的な表現が多く溢れている。「猥褻である/ない」の規準、「誰が誰の性をいかにして描くのか」もまた、時代とともに変わってきている。

女性表現者たちの試みは、女性の性的主体性・自律性の安易な否定を難しいものとしたし、性的指向の差異も異性愛中心主義における性表現のあり方・解釈をより複雑なものとしている。性器の表現一つとっても、もはやそれ自体で「芸術的」価値があるとは言えないし、逆にそれ自体で国家によって規制される「猥褻である」とも言い切れない。子どもをもはや性的に無垢な存在とみることはできなくなっていると同時に、子どもが性的な対象とされることにはより強い保護措置がとられるようになった。そうした複雑な状況の中、表現の手法も多層化している。文学、絵画、写真、映画といった芸術における「猥褻」基準が緩和されていくと同時に、必ずしも芸術性を追求することを意図しているわけではないサブカルチャーのキャラクターの性表現が議論の対象となってもいる。もはや論点は、猥褻か、表現の自由が適用される芸術か、などという単純なことにはなく、多元的な性規範、多様な性的指向、多種の表現技法、様々な主体性のあり方を考察することなく、「表現」を考えることはできなくなっているということだ。

本フォーラムでは、会田誠(アーティスト)、笠原美智子(キュレーター)、金田淳子(社会学)、清水晶子(フェミニズム/クィア理論)、成原慧(情報法)をお迎えして、現代における性表現をめぐる様々な社会的・政治的・法的・芸術的な文脈について分節していくことにしたい。わたしたちの社会は、性的な事柄を表現せずにはいられない。一見しただけでは性的に見えない事柄が、他者にとっては性的たりうることも日常的な事柄に属する。であるなら、ある事柄が「性的である/ない」「ジェンダーに関連する/しない」「性的であるが問題ない/問題がある」とわたしたちはどのような文脈から判断するのであろうか。「性的なまなざし」「ジェンダー化されたまなざし」の多文脈性を丁寧に見据えていく機会としたい。

同時にわたしたちは、この議論をその他の表現の自由めぐる事案について考える端緒にしたいとも考える。ヘイト・スピーチを法的に規制することを「表現の自由」を盾に拒む立場をどのように考えるべきか? 芸術的表現衝動を芸術であるが故に許されるべきだとする立場が他者の人権を害する事例をどう論じるべきか? 表現や受容をめぐるジェンダーの差異・非対称性をどうとらえていくのか? 公的立場での職務遂行者が、その立場を離れ個人的感情を表現の自由として主張することの社会的価値とは何なのか? 美術館という表現をめぐる場での行政による規制や主体としての館が自己規制することをどう考えるべきなのか? それらは人権をめぐる根源的な問いを含むものでもある。性表現をめぐる表現の〈不〉自由について議論を深めることで、現在の日本社会の、日本の芸術の在り方について一石を投じたい。

===
第五回フォーラム
〈不〉自由 —— 表現という行為の自由と臨界
===
日時:2016年2月20日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/p96f1LFd23
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
会田誠(アーティスト)
笠原美智子(キュレーター)
金田淳子(社会学)
清水晶子(フェミニズム/クィア理論)
成原慧(情報法)
北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)