言うまでもなくアートワールドも貨幣経済と無縁ではない世界です。美術館やギャラリー、アーティスト、キュレーター、コレクター、企画会社、新聞社、公的機関…多数のアクターが、金銭を媒介としたコミュニケーションを営み、そのなかで労働と賃金の配分がなされています。アートワールドの「下部構造」に焦点を当てる論考は数多くありますが、それらの知見の蓄積がはたして現代日本のアートワールドの現状に何らかの貢献をしているかと問われれば、口をつぐむしかありません。
芸大・美大といった教育システムによって次々と人材は生み出され、アートギャラリーなどのショーを通じ、有名性や「業界的評価」を元手に資金を回していく市場があります。また一方では、旧来のギャラリー、ミュージアムを中心としたアートワールドの現場以外にも、地域におけるアート・プロジェクトやフェスティバルが数多く行われるようになるにつれて、そうしたキャリアパスと無関係にインディペンデントにアートの実践を繰り広げていく人びとも増えてきています。純粋に作品のやりとりによって経済がまわるだけでなく、公的機関からの助成をはじめとする資金もまた、この業界をめぐるお金のうち大きな部分を占めています。アートワールドに生きる者がどんな経歴を持つにせよ、経済的な市場の論理と公的資金との組み合わせのなかで、アートという実践=労働や、労働の成果物=作品への対価を、貨幣価値に換算し、生活者としてのアーティスト、アート関係者の「生」は維持されているはずです。東日本大震災以降は、復興や地域振興の名のもとに公的資金が多く投下されていますが、もちろんアートワールドにもその影響は及び、浸潤しつつあります。そうした傾向は2020年の東京五輪まで続くだろうことは容易に想像できます。震災以降緩やかに流通しはじめたそうした資金はオリンピックをピークとしたある種の「バブル」を芸術界にもたらすでしょう。しかし、それははたして生活者としてのアーティストのあり方をサステナブルなものとすることにつながっていくのでしょうか。
本フォーラムで考えてみたいのは、作品や労働の価値が貨幣によって表現されるときに起こっている事柄、つまり「剰余価値」の搾取についてです。たとえば美術館での企画展示において、作家に支払うべき対価はどのように決まっているのでしょうか?「美術館で」の実績は、美術制度における評価の機能を美術館が専ら担うようになっている状況では、とてつもなく大きな意味を持つでしょう。その場合、自分の労働の対価と制作に充てる制作費との境界は、アビングが言うように、対価を削ってでも制作費に投じるという傾向を持っているはずです。同時に、アーティストを選ぶ側はそれを見越して、対価を少なく見積もることも出来るかもしれません。また近年盛んになっている様々なアート・プロジェクト、フェスティバルでは、多くの若手アーティストたちが自らの表現の追求のために献身的に取り組むばかりでなく、そしてそうした作品の実現や鑑賞機会の提供のために、多くのボランティアが集まって、様々な実践が展開されています。
こうしたこと全てを否定的に捉えるべきものではありません。しかし、問題なのは、そうした場で行われている等価交換(作品の価値・労働の価値と貨幣価値との交換)が、どのようなメカニズムにおいてなされているか、ということです。アーティスト一人一人は、展示の機会を求めて、あるいは社会的貢献を求めて、自らの労働を投下した作品を提供します。そしてキュレーターやディレクターはそれに対価を支払います。これが基本的な関係になりますが、たとえアーティストが手弁当で赤字を出したとしても「社会貢献」「展示機会の獲得」といった価値が、貨幣的価値のマイナスを補うと当人が自覚していれば、それは間違いなく自由な労働と賃金の等価交換だと言うことができます。ボランティアについても同様のことが言えるでしょう。
しかし等価交換であることは搾取の不在を意味するものではありません。マルクスの『資本論』の本義に立ち戻って言えば、搾取とは、システムとしての等価交換から剰余価値が生み出されるカラクリの胆にほかなりません。マルクスの場合は投下された労働価値が等価交換を経て剰余価値を生み出すプロセスが問題となっているわけですが、アートの場合、この「価値」そのものがきわめて多義的であり、それゆえに搾取の構造もまた多様なものとなっている点に特徴があります。「これは社会的な価値を持つから」「貨幣に還元されない価値が芸術にはあるから」「アートは単なる労働ではないから」…といった常套句が、アートという実践の「価値」の測定を難しくし、したがって「搾取」のあり方を不分明なものとしているのではないでしょうか。
そもそもマルクス主義の文脈においても、等価労働の「価値」がいかにして「価格」に転化するのか、ということをめぐり多くの論争がなされてきました(転形価値論争)。目に見えない理念的ともいえる価値が、いかにして価格に転化するのか、このメカニズムが不明であれば、そもそも搾取(資本家による剰余価値の搾取)という構図が成り立つのかどうかが怪しくなってきます。工業単純労働を典型とした労働価値/価格ですらそうした理論的困難を伴っているわけで、それが「作品の価値」「作者の才能」「労働ではなく活動」といったきわめて近代的な価値概念を前提としたアートワールドにおいてより錯綜したものとなることは明らかです。アートという実践ははたして「労働」なのか、価値を生むのは「製作者の才なのか作品そのものなのか」、価格に還元されない美的価値の交換とは何か、といった難題がわたしたちの前に横たわっています。
今回のフォーラムでは、こうしたアート概念そのものの問い直しをも迫る「搾取」をめぐり、「ボランティア」の贈与的性格を実証的・理論的な側面で明らかにした仁平典宏氏(教育社会学)、制作において、取材対象との関係、制作における様々な共同性においてこの問題を考え続け、またアーティスツ・ギルドのメンバーでもある―藤井光氏(アーティスト)、ディレクション、キュレーションの観点からアートワールドの構成に携わってきた蔵屋美香氏(キュレーター)とともに、「社会科学」「アート実践」「ディレクション」の三側面から、考察を深めていきたいと思います。
「自分は搾取などされていない!」という否認は、はたして搾取の不在を証言する言語行為といえるでしょうか。実はそれ自体が搾取の存在を遂行的に指し示してしまっている、無自覚的に容認してしまっているとはいえないでしょうか。「生活者としてのアーティスト」に関心を持つ/持たざるを得ないみなさんのご参加を期待しております。
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第三回フォーラム
搾取:生活者としてのアーティスト/アーティストとしての生活者
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日時:2015年10月17日(土)14:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:115人
<参加申込>
http://goo.gl/forms/Y30ILr365z
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)
【 登壇者 】
藤井光(アーティスト)
仁平典宏(教育社会学・東京大学)
蔵屋美香(キュレーター・東京国立近代美術館)
【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)