第一回フォーラム 「公共性(Public Sphere):「社会的なもの」と公共性の微妙な関係」

現在、日本各地で、というか世界各地で「アートの公共性」が問われています。その言葉は「アートの社会性」「アートの社会的な説明責任」と言い換え可能なのかもしれませんし、実践の側から見れば「ソーシャルエンゲージドである」ということを表現した言葉なのかもしれません。多くの真摯な「ソーシャル」な試みが目指されていることは、アートの自律性を信憑しにくくなった現代において、アートワールドの内部のみならず、外部の住民にとっても歓迎すべき流れであると思われます。

しかし、「アートの公共性」「アートと社会」といわれるときの、「公共性」「社会」とはいったい何なのでしょうか。あるひとは、日本固有の公共性の用法(公共の福祉)を踏襲して「社会的・経済的貢献」を、ある人はハンナ・アーレントの「社会的なもの/政治的なもの」の対照項を踏まえて「公共性」を、またある人はユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的合理性が作動する「公共性」を意味しているのかもしれません。他方で、「公共性」という言葉の行儀よさに欺瞞を読み取り、アゴニスティック(敵対的)な政治的場と対照される概念として、あるいは芸術が絡め取られてはならない「罠」として捉えているケースも散見されます。かつてフェミニズムや社会学で「公的領域/私的領域」という対概念が論争化されたときにもみられたことですが、「公的であること(to be public)」が何であり、その対義語はなんであるのか、私たちはしばしば明確な形で捉え返すことなく、いたずらに議論の混乱を招来しているようにも思えます。

あるときはお役所的な公共性を批判する理想主義的な討議空間として(対義語はリアルな政治空間?)、あるときは「親密性」や「私的領域(消費空間)」の対義語として分析的に用いられる。あるいは、生命の維持に汲々とし政治的活動を後景化させていく「社会的な領域」、女性を「私的空間」に閉じ込める男性中心主義的なマチズモの共同性として批判されたりする。さらには、公共性も一枚岩ではなく、様々な「対抗的公共性」がある、という議論もあります。

こうした語用それぞれには一定の意義があるわけですが、「アートの公共性」というとき、どの意味において用いているかによって含意が異なってしまい、議論が錯綜している場合が少なくないように思われます。これはまた「社会的 social」という概念についてもいえることで、それはしばしば公共性と等値されたり、逆に対義的な概念として用いられたりする。「アートの公共性」や「ソーシャル」なあり方を議論するとき、わたしたちはまず、どのような意味で、いかなる歴史性を帯びた概念としてその語を用いているか、をいったん立ち止まってみる必要があるのではないでしょうか。

第一回のフォーラムでは、「公共性」「社会的なもの」についての社会哲学的な考察をされている経済学者の稲葉振一郎氏、アートにおける「新しい公共」の創造を目指す芸術公社の相馬千秋氏にご登壇いただき、「公共性」「社会的」の意味を、「五輪バブル」を迎えるであろうアートワールドの「情況」にそくして、徹底的に討究していきたいと思います。

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第一回フォーラム
公共性(Public Sphere):「社会的なもの」と公共性の微妙な関係
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日時:2015年6月21日(日)13:00〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内

※会場のキャパシティが小さく、初回については招待状をお送りした方およびその方にご紹介いただいた方のみの受付となっております。二回目以降については、適宜受付方法等についてあらためてサイトにてご報告いたします。

【 タイムテーブル 】
13:00〜13:20|神野真吾(芸術学・千葉大学) 「「社会の芸術フォーラム」設立趣旨」
13:20〜14:00|北田暁大(社会学・東京大学) 「何の「公共性」か? −テーマ趣旨説明」
14:00〜14:40|稲葉振一郎(経済学・明治学院大学)「公共性と社会的なもの」
(休憩)
15:00〜15:40|相馬千秋(ディレクター・芸術公社)「アートにとって「新しい公共」とは何か」
16:00〜16:20|コメント 高橋かおり(文化社会学・早稲田大学)
16:20〜17:40|討論

【 推薦図書 】